コラム

ソニー・ロリンズ──「生きる意味」を探し続ける巨人

ジャズの歴史において、ソニー・ロリンズほど「求道的な音楽家」という言葉が似合う人物はいないでしょう。ビバップ黄金期にモンク、パウエル、パーカーらと肩を並べながらも、名声より自己の成長を選び、より深い音楽的表現を追い求めました。

1950年代の絶頂期には突如として表舞台を離れ、ウィリアムズバーグ橋に通い、数年間にわたり孤独な練習の日々を送ります。

なぜ、彼はその道を選んだのか。

晩年に語られたロリンズの言葉は、単なる演奏技術やジャズ論の域を超えています。そこにあるのは、音楽家として、そしてひとりの人間として、「より良く生きるための道」を探し続けた巨人の哲学です。

──2006年6月2日、ニューヨークにて。

*本記事は Academy of Achievementから許可を得て翻訳・編集したものです。Copyright: American Academy of Achievement

ジャズ・ミュージシャンという生き方

ジャズ・ミュージシャンの人生は、実に不安定なものだ。さっきも、ピアニストの友人がトラブルに巻き込まれてケガをしてしまった──そんな話をしていたところなんだよ。

ステージ以外の場所で、思いもよらないことが起きるし、生き方そのものが抱える内面的な不安定さもつきまとう。

ジャズ・ミュージシャンは、感じたことをすべて音にしたいと思っている。言ってみれば、人生をそのままさらけ出して生きているようなものなんだ。

でも、現実の世界ではそうはいかない。ステージの上では心ゆくまで表現できても、ひとたびステージを降りれば、社会に合わせて生きなければならない。

それが難しいんだ。ジャズ・ミュージシャンの多くが──いや、たぶん芸術家はみんな──ステージを離れた途端、普通の人として生きることに苦労する。演奏したい、音楽の核心に触れたいと思えば思うほど、その内なるスピリットを引き出したくなるからね。

そのために酒を飲んだり、ドラッグに手を出したり、タバコを吸ったりする。そうやって、なんとかその”何か”をつかもうとするんだ。

でも、それはとても危険なんだ。僕が知っている偉大なミュージシャンたちや、歴史に名を残した人たちも、みんなそうだった。行き過ぎてしまうんだよ。

演奏に生きることと、人として生きることのバランスを取ることができなかったんだ。もしかすると、そもそも両立なんてできないのかもしれない。

それでも、これからの若いミュージシャンには、タバコを吸わず、酒を飲みすぎず、ドラッグに手を出さず、自分を傷つけないでいてほしい。これからは、そういう方向に向かうべきだと僕は思っている。

いいジャズを演奏するのに、酒やドラッグなんて必要ない。でも、長いあいだそれがジャズらしさの一部みたいに思われてきたから、多くの人がそのイメージにとらわれてしまうんだ。

薬物依存と再生

この話はあまりしたくなかったんだ。というのも、「やっぱりジャズ・ミュージシャンは問題ばかり起こす」とか「犯罪者みたいな連中だ」と思われるのが嫌だったからね。

でも、亡くなった妻の言葉で考えが変わった。「ソニー、恥ずかしがることはないわ。あなたはその経験を乗り越えたの。むしろ、それは誇るべきことなのよ」そう言ってくれたんだ。

それ以来、この話をすることを嫌だとは思わなくなったよ。

憧れと依存の始まり

当時は、憧れの人の真似をしていた。──チャーリー・パーカーやビリー・ホリデイ──みんなドラッグを使っていたんだ。

なかでも、大きな影響を受けたのはチャーリー・パーカーだった。彼は、まるで神のような存在で、「パーカーがドラッグを使っているなら、それでいいんだ」と思い込んでしまったんだ。

でも、それは大きな間違いだった。その道を進んだ多くの仲間が、そこから抜け出せずに堕ちていった。トランペット奏者のファッツ・ナヴァロもその一人で、若くしてドラッグで命を落とした。

本当にたくさんのミュージシャンがあの状況にいた。僕も気づけばどんどん深みにハマって、抜け出すまでにずいぶん時間がかかった。あの頃は、本当につらい時期だったよ。

転落

刑務所に入った話はしていいのかどうか迷うけど、いろんなことがあった。

体を縛る拘束具を着せられたこともある。あれがどんな気分か、想像できるかい?僕にも想像できなかった。ドラッグによる精神錯乱のせいで、刑務所の中で完全におかしくなってしまったんだ。本当にきつかったよ。

当時、ニューヨークには“トゥームズ”と呼ばれる刑務所があってね。名前のとおり、まるで墓の中にいるような場所だった。そこに入れられて、禁断症状に苦しみながら、地獄のような時間を過ごしたんだ。

刑務所に入る前から、僕はもうどうしようもない人間で、家にある物を売ってまでドラッグを買っていた。完全にアウトローで、社会のはみ出し者だったよ。でも、母の愛と、彼女の信じる力が僕を支えてくれた。父は海軍勤めで、家を空けていることが多かったからね。

そして、チャーリー・パーカーが「おまえ、それは違う道だ」と言ってくれた。その言葉は本当に大きかった。そこでようやく気づいたんだ。「このままじゃ、もう先はない」って。街を歩けば、人が僕を見るなり道を渡って避けていく──そんな存在になっていたからね。

再生の始まり

それから、ケンタッキー州レキシントンにある大きな病院へ行くことができた。当時そこは、ドラッグ依存の人たちを治療する施設として知られていて、今で言えばベティ・フォード・センターのような場所だった。犯罪者ではなく、病気の人として扱われるまっとうな施設だったよ。

僕はそこに自ら入院した。そのときにはもう「ドラッグをやめる」と心に決めていたからね。だから、そこで本格的な治療を受けたんだ。本気でやめたいという意志があったからこそ、うまくいった。意志がなければ、きっとダメだったろう。実際、退院後にまたドラッグに戻ってしまう人はたくさんいたからね。

それ以来、何年にもわたって多くの人が僕のもとを訪ねてきて、「レキシントンの施設って、どんなところだったの?」と聞いてくる。最近も、あのリハビリセンターについて本を書きたいという人がいたくらいだ。それだけ、あの場所に関心を持つ人が多いということなんだろうね。

ステージを離れる決意

僕は、善悪の感覚がはっきりしている人間なんだ。それがスピリチュアルな導きなのか、心の声なのか──どう言えばいいのかわからないけれど、いつも心の奥で何かが語りかけてくる。「良心」というのが一番近いかもしれないね。

ドラッグのときもそうだった。心の奥で「これは違う」と、はっきり感じたんだ。それ以来、ずっとその声を信じて生きてきた。

一度「やろう」と決めたら、他のことを全部遮断してそれだけに集中する。自分には、これが一番自然な生き方なんだ。

だから、周りが何を言おうと気にならなかった。「音楽の世界から離れたら、もう戻れないぞ」「ブランクで感覚を失うぞ」──そんなふうに言う人もいたけれど、僕の気持ちは揺らがなかった。

僕の中には、「自分を高めたい」「もっと深い音に到達したい」という思いがあって、それがすべてだったからね。

迷いはまったくなかったよ。心の声が示してくれる方向へ進む──ずっとそうして生きてきたし、その姿勢が僕を支えてきたと思う。

今では、そういう生き方ができることを誇りに思っている。強い意志なんてものじゃないよ。ただ、自分の良心が告げる方へ歩いてきただけなんだ。演奏活動を一度離れたのも、その延長のようなものさ。

ある夜の決断

あるとき、自分の演奏が評判ほどじゃないなと思ったんだ。名前だけが独り歩きして、実際の音が追いついていないような気がしてね。

それが決定的になったのが、エルヴィン・ジョーンズと一緒に演奏したときのことだ。町じゅうに「ソニー・ロリンズがやってくる!」というポスターが貼られ、会場は満員だった。でも、その夜の演奏は良くなかった。

自分でも分かっていた。あのときの僕は、あるべきレベルに達していなかった。だから「ここでいったん引こう」と決めたんだ。そして、自分をもう一度鍛え直すことにした。

ウィリアムズバーグ橋での修行

あれはね、本当に偶然の出来事だったんだ。

当時、僕はロウアー・イースト・サイドの小さなアパートに住んでいた。街の人たちは温かく迎えてくれて、すぐに友人もできた。

でも、ミュージシャンにとってアパートでサックスを吹くのは大問題なんだ。壁は薄いし、音は隣に筒抜けになる。僕は人に迷惑をかけるのが嫌いだから、練習するときはいつも気が引けていたよ。

あるとき、デラニー・ストリートを歩いていて、ふと見上げると階段があった。特に何を考えていたわけでもない。ただ、なんとなくその階段を上ってみたんだ。そしたら──そこに橋があった。

目の前に広がる大きな空間。はるか先まで伸びる橋には誰もいない。その瞬間、「これだ」と思った。ここなら思いきり吹ける。電車や車の音が絶えず響き、橋の下では船が行き交う。どれだけ大きな音を出しても気にならない。まさに理想的な練習場所だった。まるで運命に導かれたかのようだったよ。

それからは、サックスを持って橋へ通うようになった。昼も夜も何時間も吹き続けた。ときには15時間、16時間に及ぶこともあった。たまに誰かが通り過ぎることはあっても、ほとんど一人きりの世界だった。本当に理想的な場所だったんだ。

ハーレムに生まれて

僕は1930年にハーレムで生まれた。ほかの街で育ったことがないから比べようがないけれど、とてもいい場所だったよ。友だちもたくさんいたし、音楽にあふれていた。

家の中にも音楽があったし、外に出れば、どこからともなく音が聴こえてきた。夜中までやっているクラブや、“スピークイージー”と呼ばれる非合法の酒場もあってね。

子どもだった僕は、コットン・クラブやエルクス・ランデヴーみたいな店には入れなかったけど、あの頃のブラック・カルチャーの空気を自然と吸い込んで育った。

音楽家になりたいと思っていた僕にとって、あれほど恵まれた環境はなかったと思う。ハーレムは本当に特別な場所だった。

リーダーシップの芽生え

子どものころの僕は、よく冗談を言ってはふざけていた。“ジャー”ってあだ名で呼ばれていたんだ。

たぶん、けっこういいやつだったんだろうね(笑)。13歳か14歳のころ、近所の少し年上の仲間たちが、僕をグループのリーダーに選んだことがあった。同じ通りに住む仲間で作った小さなグループだったけどね。

後になってふと思った。「どうしてあのとき、みんな僕を選んだんだろう?」って。そのときは「俺ってすごいんじゃないか」なんてちょっと得意になったけれど(笑)、今思えば、それが後に僕がバンドリーダーになることの予兆みたいなものだったのかもしれない。

それから、外で遊ぶ時間も多かった。ニューヨークの街角で、スティックボールやボックスボール、ビー玉遊びなど、いろんなことをして過ごしたよ。かなり活発な子どもだったと思う。

忘れられない先生との出会い

学校も好きだったよ。小学校のときに、ラヴという女性の先生がいた。本当に素晴らしい人で、彼女のおかげで飛び級させてもらったこともあった。

そのころの僕は勉強に前向きになっていて、ラヴ先生が「あなたならできるわ」って応援してくれたんだ。だから今でも、彼女のことは鮮明に覚えている。

彼女は、僕に初めて「勉強って面白いかもしれない」と思わせてくれたんだ。そのあとも何人かいい先生に出会ったけど、やっぱり彼女が一番印象に残っている。

僕が「学校が好きだった」と言えるのは、間違いなく彼女のおかげだ。

学ぶこと

高校はあまり恵まれていなかったと思う。シェイクスピアの『マクベス』なんかも授業でやったけど、正直、ほとんど理解できなかった。

先生たちの教え方も、あまり上手じゃなかったんだろうね。だから、本に興味を持つようになるのは、ずっと後のことだった。

そんな僕にも、本にまつわる忘れられない思い出がある。海軍に勤めていた父が、あるとき海軍関係者の子どもたちをブルックリン海軍工廠のクリスマス・パーティーに招待してくれたんだ。

そのときのプレゼントが、アジアの伝統的な舟について紹介した本だった。その本のことは今でもよく覚えている。でも、当時の僕は本が特別好きってわけじゃなかった。

本に夢中になったのは、ずっと後になってからだ。大人になってからは、もう貪るように読んだよ。僕は高校しか出ていないし、しかもそれほど良い学校でもなかった。だから、本を通して独学で勉強したんだ。

音の中で育った子ども時代

兄はクラシックのヴァイオリン奏者で、いつも家の中で練習していたよ。姉も音楽を学んでいて、ふたりともクラシックの訓練を受けていた。僕は末っ子で、そんな兄や姉の音を聴きながら育ったんだ。

それで、6歳くらいのときにピアノを習い始めたものの、そのころの僕は外で遊ぶことに夢中でね(笑)。結局、続かなかった。

本格的に音楽にのめり込んだのは、サックスをやりたいと思ってからだ。それからサックスの先生についたり、小さな音楽学校に通ったり、個人レッスンを受けたりした。でも、兄や姉みたいにきちんとした教育を受けたわけじゃない。だから、どこかで引け目を感じていた。

最初のサックスとの出会い

ある日、母が僕を連れてサックスを吹く叔父のところへ行ったんだ。「ヒューバート、この子、サックスをやりたいって言ってるのよ」って。すると叔父は、中古のサックスを探して譲ってくれたんだ。小さなアルトサックスだったけど、僕にとっては宝物だった。

そのときの喜びは今でもよく覚えている。8歳だった僕は本当に嬉しくて、サックスを抱えて写真まで撮ったんだ。これをきっかけに、音楽をたくさん聴くようになった。

心を奪われた音楽

特に夢中になったのが、ルイ・ジョーダンだった。彼の音楽は今で言えばリズム&ブルースだけど、当時はまだそんな呼び方はなかったね。よく預けられていた叔父ルーベンの家には、恋人のリジーが持っていたルイ・ジョーダンのレコードがたくさんあって、そこで一日中聴いていた。

他にも、映画館でカウボーイ映画を観たり、家で古いブルースのレコードをかけてくれたりして、ルーベンの家に行くのが大好きだった。アーサー・クルーダップやロニー・ジョンソンもたくさん聴いたよ。

でも、やっぱりルイ・ジョーダンが特別だった。心から憧れていた。しかも偶然にも、彼が僕の小学校のすぐ隣のクラブで演奏していたんだ。

学校の帰り道、毎日そのクラブの前を通っては、入り口に貼られたルイ・ジョーダンの宣伝写真を見上げていた。タキシードに身を包み、ピカピカのサックスを抱えて、蝶ネクタイを締めて──その姿を見て、こう思ったんだ。

「これだ。俺はこれになりたい。」

その瞬間、サックス奏者になると心に決めた。あのときの気持ちは今でもはっきり覚えている。

音楽のヒーローたち

ルイ・ジョーダンに夢中になったあと、今度はコールマン・ホーキンスに惹かれていった。彼の音楽には知的なアプローチがあって、演奏の内容も高度で深みがあった。それがたまらなく魅力的でね。僕のアイドルになったよ。

それまで吹いていたアルトサックスから、テナーに持ち替えたのもその影響だ。

だから僕の最初のヒーローは、ルイ・ジョーダンとコールマン・ホーキンス。そしてもう一人、子どものころからずっと好きだったファッツ・ウォーラーだ。

精神を導いた人々

音楽以外の面では、祖母の影響が大きかった。祖母は黒人の権利向上を求める運動を支持していて、マーカス・ガーベイの運動や、共産党の集会にも足を運んでいた。当時は、黒人解放運動と共産主義が混同されがちだったけれど、実際には少し違うんだ。

祖母は共産主義者というより、黒人の自立を重んじる考えの人だった。その影響で、僕はポール・ロブソンの支持者になった。祖母に連れられてロブソンの集会に行ったし、デモ行進にも参加した。演説もこの目で見たよ。映画でも活躍していた人で、僕にとっては忘れがたいヒーローだった。

マーカス・ガーベイは、僕が生まれる前の時代の人だったからね。名前はよく耳にしたけど、活動そのものは知らなかった。でも、ポール・ロブソンのことは、実際に会場で見て、その声を聞いて、強く心に残ったんだ。

僕は昔から、政治や社会に強く関心を持つ人間だった。でも、誰かを敵視するようなタイプじゃない。「反白人」みたいな考え方はまったくなかった。そういうことじゃなくて、人権や正義について考えるタイプだったんだ。

家でも政治の話はよくしていたよ。ヘンリー・ウォーレス(※当時の進歩的政治家)は家族の間でとても人気があったし、僕たちはルーズベルト大統領とニューディール政策の支持者でもあった。

当時、僕の家は生活保護を受けていて、食料の入った箱を取りに行ったことを覚えている。その政策を進めたのがルーズベルト大統領で、僕ら家族にとっては恩人のような存在だった。

そういう環境で育ったせいか、政治や社会のことに関心の強い人間になった。でもね、怒りを原動力にするタイプではないんだ。もちろん、ときには腹が立つこともあるけど(笑)。

僕は根っから穏やかで、スピリチュアルなところがある。だから、過激な政治活動には向いていない。もし戦争になっても、自分から参加するタイプではないと思う。

でも、人間の尊厳や平等を信じる気持ちは、誰にも負けない。それは今でも、僕の中で生き続けている信念なんだ。

差別の時代を越えて

アメリカで黒人として生きて、差別をまったく受けずに済むなんてことは、まずありえない。さっきもカリーム・アブドゥル=ジャバーと話していて、こう聞かれたんだ。「ベンジャミン・フランクリン高校に通ってたとき、どんな感じだった?」って。

あの頃は、人種統合の初期の取り組みが始まって、黒人生徒が他の地区の学校へバスで通うようになったんだ。

僕たちはエドワード・S・ジュニア・ハイスクールから、新設されたベンジャミン・フランクリン高校へ通うことになった。場所はイタリア系の住民が多いイタリアン・ハーレムと呼ばれる地区で、116丁目とプレザント・アベニューの近くだった。

その学校は、いわば人種統合を試しているような学校で、僕たちはバスと電車を乗り継いで通っていた。もちろん、最初は地元の子どもたちの反発が強く、敵意をむき出しにされることもあったよ。

そんな状況を少しでも和らげようと、有名人たちが学校に来てくれたんだ。フランク・シナトラやナット・キング・コール・トリオが、学校の小さな講堂で歌いながら「ケンカはやめよう」「仲良くしよう」と呼びかけてくれた。

そのおかげで、空気は少しずつ変わっていった。次第に、僕たちはお互いを受け入れるようになっていったんだ。

希望をつないだ人々

もう一人、当時の僕らにとってのヒーローがヴィート・マルカントニオという政治家だ。

彼はイタリアン・ハーレムの出身で、よく共産主義者だと言われていたけれど、実際はとてもリベラルで人間味のある人だった。当時は「黒人を平等に扱うべきだ」と主張するだけで、「共産主義者だ」とレッテルを貼られる時代だった。人種平等の主張と政治思想がごちゃ混ぜにされていたんだ。

でもマルカントニオは、本気で正義を信じていた。同じ地区の出身ということもあって、彼のことを誇りに思っていたよ。

そのころから僕は、どうすれば社会を良くしていけるかを考えるようになった。そして、その考えは今でも変わっていない。この社会はまだ完璧じゃないからね。だからこそ、今でも考え続けているんだ。

音楽家としての第一歩

8歳でサックスを手にしてから、音楽と生きていくんだと強く思うようになった。それからはずっと、ひたすら演奏し続けてきた。

僕の性格は、いったん始めたらとことんやるタイプなんだ。練習を始めると、母が「ソニー、ごはんよ!」と呼んでも夢中になっていて気づかない。別の世界に入り込んでしまうんだ。その集中ぶりは今も変わらない。

ただ、もう年を取ったから、さすがに1日15時間も練習することはできないけれど(笑)、精神的にはあの頃のままだ。練習に生きるというあの気持ちは、今も自分の中にある。

14歳のとき、近所の仲間とバンドを作った。そして17歳になるころには、街の人たちや、年上のミュージシャンたちにも少しずつ名前を知られるようになっていた。そんなふうに活動の場が広がっていく中で、18歳のときには、初めてレコーディングも経験した。

思えば、8歳でサックスを手にし、気づけばそのまま音楽の道を歩き続けてきたんだ。

巨匠たちとの出会い

20歳になるころには、セロニアス・モンク、バド・パウエル、チャーリー・パーカーといった、その時代の最高のジャズミュージシャンたちと一緒に演奏するようになっていた。

まだ駆け出しだった僕を認めてくれたということは、自分にも何か可能性があるんだと思える出来事だった。僕は昔から、そういう場でも臆するタイプじゃなかった。彼らと演奏することに対して怖さはなかったよ。

もちろん、心の底では彼らに対する深い尊敬の念でいっぱいだったけれどね。そんな中、モンクや周りのミュージシャンたちは、僕を対等な仲間として扱ってくれた。今思い返すと、あれは本当にありがたいことだった。ちょっと照れくさいくらいだけど(笑)。

当時、あの偉大なミュージシャンたちは、僕を“同じ時代のプレイヤー”として見てくれていた。実際には僕のほうが4〜5歳若かったけれど、彼らがそう感じてくれたことは本当に嬉しかった。それが大きな自信になり、「自分はこの道で間違っていない」と確信できたんだ。だからこそ、ただひたすら演奏を続けようと思った。

音楽のインスピレーション

どれくらい技術的な話をすればいいのかわからないけど──僕は自分のことを、その場で湧き出るままに演奏するタイプのプレイヤーだと思っている。のちにフリー・ジャズと呼ばれるスタイルだね。

頭で考えるよりも、心のままに吹くんだ。だから、ビバップのように形式がはっきりしたスタイルは、あとからその構造を理解して身につけていったんだ。

幼い日の音楽体験

何から影響を受けたかと言えば、まず家の中で聴いていた音楽が大きかった。兄がヴァイオリンを練習していたし、ファッツ・ウォーラーやジェームス・P・ジョンソンのピアノロールもあった。

ルイ・ジョーダンのレコードもよく流れていたし、アポロ・シアターの「アマチュア・ナイト」の放送も聴いていた。毎週違うバンドが出演して、さまざまな音楽に触れることができたんだ。

それに映画もよく観た。僕が育った時代は、映画が今のテレビのような存在だったからね。劇場に通ってたくさんの映画音楽に出会ったよ。中でもジェローム・カーンの音楽が好きだった。

そうやって聴いてきたあらゆる音楽が、今のインスピレーションの源になっている。

僕の頭の中は、いつもメロディでいっぱいだ。歌詞まで覚えているものもあるけど、何より旋律が染みついている。即興していると、ふとした瞬間に子どものころ聴いたメロディが飛び出してくることがあるんだ。自分でも驚くことがある。「あれ、こんなフレーズどこから出てきたんだ?」って。

でもそれは、記憶の奥に眠っていた音楽なんだ。即興の中で無意識に呼び起こしてくれるんだと思う。そうした記憶や音は、いつも心のどこかに残っている。

ただ、僕がたどり着きたいのは、もっと深いところなんだ。子どものころに聴いてきた音の記憶は、いわば“入り口”にすぎない。その奥にはもっと深い次元の音楽があって、そこへ行ける気がしている。だから今も探しているんだ。

とはいえ、僕の音楽の源はひとつだけじゃない。映画音楽もあれば、ジャズバンドの演奏もあるし、ジャンルを問わずいろんな音楽から影響を受けてきた。僕は本当にあらゆる音楽が好きなんだ。どんな音楽にも必ず学べるものがあるからね。

終わりなき音の探求

僕は、音楽の中にもっと深い表現があると信じている。

よく人から「ソニー、まだそんなに練習してるの?」「もう十分やったんじゃないの?」と聞かれるけれど、僕自身はまだ探している途中なんだ。どこにあるのかは分からない。でも──たしかに“それ”は存在している。それだけははっきり感じられる。

ときどき、ほんの一瞬だけその断片をつかめることがあるんだ。特にいい演奏ができた夜は、自分でも分かる。「ああ、今のだ」って。でも、そんな瞬間は年に数えるほどしかない。

いつでもその状態でいたいと思うけれど、まだそこまでは至っていない。僕の探求は今も続いているんだ。

年齢を重ねた今でも、その何かをつかもうとしている。まだ先にいけると信じているから。だから僕はいつも満足していないし、常にもっと先を求めている。

僕よりずっと才能のあるミュージシャンなんて、世の中にいくらでもいる。みんなそれぞれのスタイルを持って、素晴らしい音楽を作っている。音楽家にはそれぞれの道があるんだ。

その一方で、僕はまだ自分を完全に表現できていないと感じている。演奏の中で、ごくまれに深いところへ入ったような感覚が訪れるんだ。その時、自分がもっと深い精神的な場所へ踏み込んだのをたしかに感じる。

「ああ、いま届いた」と。

その一瞬のために、僕は今も演奏を続けている。

成功とは何か

僕にとっての成功とは、贅沢をすることじゃなくて、日々の心配をせずに暮らせることなんだ。いいホテルに泊まれて、経済的に追い込まれない──それだけで十分だよ。

僕は映画スターでもないし、そういう世界の人間ではない。でも、少なくとも音楽だけで生活していける。それが、成功が僕にもたらしてくれた一番の恩恵なんだ。

そもそも僕は、物にあまり執着がない。欲しいものも少ないし、必要以上に何かを持つ必要も感じない。でも世の中には、経済的に苦労している人がたくさんいる。だから、生活に困らずにいられるというだけで、幸運だと思っている。

ただ、僕にとってそれは成功の本質じゃない。さっき話したように、僕は今ももっと深い表現を探し続けている。精神的な意味では、まだ終点にはたどり着いていないんだ。

もちろん、世間的にはある程度知られているし、そのおかげで少しは生きやすくなっている部分もある。

僕が住んでいるニューヨーク州北部の小さな町でも、最近は取材を受けたりして、もうすっかり“顔バレ”してしまった(笑)。みんな「ソニーだ!」って声をかけてくれる。それはそれで嬉しいことだよ。

でも、僕にとって大事なのはそこじゃない。本当に望んでいるのは、より良い人間であり続けることなんだ。

魂の成長

自分で言うのもなんだけど、僕はある意味でスピリチュアルな人間だと思う。人生がどれだけ難しいものか、そして理想の自分でいようとすることがどれほど大変か、よく分かっている。

たとえば──良い生活習慣を持つこと。体にいいものを食べ、運動を続けること。人に対しては、自分がされたら嬉しいように接すること。そうした一つひとつの小さな積み重ねが、僕にとっては魂を成長させるために欠かせない。

少し抽象的に聞こえるかもしれないけれど、これは僕にとっては本当に重要なことだ。僕が目指す成功とは、名声や賞賛ではなく、自分をより良い方向へ磨いていくことなんだ。

人間にとって一番難しいのは、自分を律することだと思う。食べすぎないこと。怠けないこと。心の声に正直でいること。

僕たちは皆、「何が正しいか」を本当は知っている。でも、ときにはそこから目をそらしてしまう。それでも、それこそが人生の闘いなんだ。少しずつでいい、自分を良い方向へ運ぼうとする──その終わりのない挑戦なんだよ。

僕は、人生とは自分を磨くために与えられたチャンスだと思っている。そして、一番難しい闘いは他の誰かと争うことじゃない。自分自身との闘いなんだ。それが、今の僕の生き方だよ。

届いたと思える瞬間

これまでの演奏の中で、いつもより高い次元に入れたと感じた瞬間はいくつかある。そういう演奏が、特別なことではなく、自然にできるようになったとき、初めて「たどり着いた」と言えるんだと思う。

その場所へ行けるという確信はある。そして、その先にはさらに深い表現があることも分かっている。ごくまれにだけれど、その片鱗に触れたと感じる瞬間があるんだ。それは決して遠い夢じゃない。確かに手が届くところにある。

もちろん、それが最終地点というわけではない。到達した先にも、きっとまだ次の段階がある。学ぶことも探すことも、終わりはないんだ。

ただひとつだけ確かなのは、少しずつだけれど“より深い場所”へと向かっているということだ。

若い音楽家たちへ

僕が言えるのはただひとつ──自分のやっていることを心から愛すること。それだけだ。

お金のことを気にする必要はない。よく若い人たちが僕のところへ来て「何を練習すればいいんですか?」「どうすれば成功できますか?」と聞いてくる。

でも、僕の答えはいつも同じだ。自分のやっていることを心から愛しなさい。そして、それを信じなさい。もしその行為が誰かを傷つけるものでなければ、迷わずその道を進めばいい。結局のところ、そこにすべてがあるんだ。

もしお金や物質的な成功を求めているなら、僕にはアドバイスできない。なぜなら、それは人生の本質じゃないから。僕は物質主義を信じていないし、消費や競争のために生きることにも興味がないんだ。

でも若い人が、科学者でも、音楽家でも、画家でも、彫刻家でも、自分のやっていることを本気で愛しているなら、そこにすべてを捧げるべきだ。そうやって、自分の道にまっすぐ向き合えていること自体が、すでに満たされている証だよ。自分の信じるものに身を捧げて生きられていること──それこそが僕にとっての成功なんだ。

だから僕が若い人に伝えたいのは、「本気でやれ」「信じろ」「他のものに惑わされるな」ということ。やるべきことに全力で向き合い、世界のノイズを遮断し、自分の“核”だけを見るんだ。

なぜなら、君こそが“世界”なんだから。他の誰でもない。君のやっていること、君の愛、君の芸術、それこそが“世界”そのものなんだ。

21世紀、人間に課せられたもの

1960年代に僕はインドへ行った。ヨガに興味があったし、さまざまな哲学を学んでみたかったんだ。その中で知った考え方のひとつに、「時代」という概念がある。

人間の存在には、いくつもの時代があり、それぞれに違う精神性や課題がある、という考え方だ。21世紀を迎えるにあたって、過度な期待をかけすぎないほうがいいと思っている。

なぜなら──さっきも言ったように、本当の闘いは自分の内側にあるからだ。環境問題、国家間の対立、部族間の争い、疫病……そうした外側の出来事は、確かに現実として存在する。

でも、それよりもはるかに大切なのは、自分という人間をどう扱い、どう鍛えるかなんだ。

インドの哲学には「カリ・ユガ」という時代観がある。これは、人類が生きている“ひとつの時代”を指す言葉だ。そしてそのあとには、また新しい時代がやってくる。西洋でいう“水瓶座の時代”と似た考え方だ。

時代は移り変わり、存在の形も変化していく。そのすべてを理解することは、とても僕にはできない。でも、その根本にある「原理」はわかる。つまり──解決すべき問題は社会ではなく、自分自身の中にあるということだ。

21世紀をどうするか、国家をどう導くかではなく、ひとりの人間としてどう生き、どう高めていくか。それがすべてなんだ。

だから僕にとって、「21世紀」という言葉自体に特別な意味があるわけじゃない。もちろん、世の中には無数の問題がある。でも、そこにとらわれすぎてはいけない。問題の本質は、いつだって自分の中にあるのだから。

もちろん、僕も世界のことを心配するよ。環境のこと、病気のこと、人々の苦しみのこと。だけど、もっと深いところでは──僕が本当に安らげる場所は、自分の心の奥なんだ。多くの人も、きっと同じように感じていると思う。

そういう意味では、僕たちは21世紀を必要以上に心配する必要はないのかもしれない。だって、世界は僕たち一人ひとりの内面を映し出しているものだから。

誤解しないでほしいのは、「無関心になれ」と言っているわけじゃない。道に倒れているおばあさんを見たら、当然手を差し伸べるべきだし、そういう優しさは絶対に必要だ。

でも同時に、物事を正しい視点で見てほしい。本当の闘いは、自分自身の中にある。自分を少しでも良くしようとすること。それができれば、世界全体も良くなっていくはずだ。

死後どう記憶されたいか

自分の良心に従って生きようとした人間だった、そう思ってもらえたら嬉しい。群衆の声に流されず、自分の内なる声に耳を傾け、その声が導くままに生きた人間として。

つまり、少しでも良い人間になろうと努力し、選択を重ね、自分を高めようとしてきた人間だった──そう受け取ってもらいたい。

僕にとって大事なのは、音楽の評価よりもどう生きたかなんだ。自分の中の闘いに向き合い、少しずつでも自分を変えようとする。それが僕の人生のテーマだ。

たとえば──ポークを食べるのをやめたり、身体に悪い習慣を断ち切ったり。一見、些細なことに見えるかもしれない。でも、それこそが自分をより良くするための闘いなんだ。

だから、もし僕のことを思い出してくれるなら、「ソニーは、自分を磨く闘いをし続けた人だった」──そう言ってもらえたら嬉しい。そしてそのためには、僕自身が今も闘い続けなければならない。実際、毎日がその闘いなんだ。

僕たちはこの世界にいる限り、自分と闘い続ける。そして、いつか別の世界へ行くときまで、その闘いは終わらない。でも、それは悲しいことじゃない。むしろ素晴らしいことなんだ。

人生というのは、そうやって自分を使って成長するための機会を与えてくれる。それを前向きに生きること。それこそが、人生がくれる最大の贈り物なんだ。

音楽の面ではね、僕は本当に多くの時間を練習と演奏に費やしてきた。偉大なミュージシャンたちと共演して、彼らに愛され、僕も彼らを愛した。それは誇りに思っている。

若いミュージシャンが「あなたの音楽で人生が変わりました」と言ってくれる。そんなときは本当に嬉しい。でも──僕が本当に望む“喜び”は、別のところにある。それは、こう言ってもらえることだ。

「ソニー・ロリンズは、どんな時代にあっても、自分を高めようと努力した人だった。」

もしそんなふうに覚えてもらえるなら、自分の人生にも意味があったと思えるだろう。まあ、実際にはそんなふうに言われることはないかもしれないけどね(笑)。でも、これが僕の本心だよ。

原文インタビューについて

本記事は、Academy of Achievement が公開している「Sonny Rollins – Academy Class of 2006」のインタビュー動画を、許可を得て翻訳・編集したものです。

Academy of Achievement の YouTube チャンネルでは、ソニー・ロリンズをはじめ、歴史・芸術・科学・スポーツなど様々な分野で世界を変えてきた人々の貴重なインタビューが公開されています。

興味のある方はぜひチャンネルを訪れてみてください。

Special Thanks to Academy of Achievement.

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