デイヴ・リーブマン・インタビュー:巨匠たちとの記憶とレコーディングの流儀
参加レコードは500枚以上。半世紀にわたり第一線を走り続けるジャズ・サックス界の重鎮、デイヴ・リーブマン。
コルトレーンの衝撃に始まり、エルヴィンやマイルスのバンドへ抜擢されるまでの軌跡。さらには盟友リッチー・バイラークとの絆や、コンセプト・アルバムでの新たな試みまで——。
歴史的なセッションの記憶から実践的な音楽論まで、本人の言葉で振り返る貴重なインタビューです。
(*本記事はSamo Salamon氏より許諾を得て日本語に翻訳・編集したものです)
初期の衝撃と恩師たち
Samo: あなたの演奏を初めて聴いたのはアルバム『Voyage』でした。というのも16、7歳の頃、ギタリストのヴィック・ジュリスに夢中で、彼がそのアルバムに参加していたんです。中でも「The Gravel And The Bird」はすごく心に響く曲ですよね。あなたがジャズに惹き込まれたのも、こうした感情的な側面が理由なのでしょうか?
David: もちろんそれも大きいね。感情と知性、その両方の探究だよ。我々ジャズミュージシャンはジャズという音楽を、クラシック音楽とは違う「生きた歴史」として捉えているんだ。偉大な巨匠たちが、必ずしも現役で演奏しているとは限らないにせよ、今もなお同じ時代に存在しているからね。
僕らは音楽を始めた頃からずっと、そうした巨匠たちの演奏を聴き続けてきた。僕の場合はもちろんコルトレーンだ。聴くたびに「自分はあのレベルに近づけているだろうか」と自問するんだ。コルトレーンやウェイン・ショーターにはなれないけれど、それでも、自分に影響を与えてくれた偉大な先人たちに少しでも近づこうとする。
歳を重ね、この音楽を長く演奏し続け、それを生業にするようになると気づくんだ。これは単なる「演奏」ではないとね。一種の精神的な探求であり、我々にとってはまさに「星に手を伸ばす」ような行為なんだ。演奏するたびにほんの少しでもそこに近づけたら、と願っている。でも決して完成することはない。常に学び続け、好奇心を持ち続けなければならない。
だから僕にとってジャズにおける挑戦とは、15歳のときニューヨークで初めてコルトレーンを観たあの衝撃を、いかにして自分自身の音楽で体現し続けるかということだった。もっとも、その夜の時点では、それが自分の一生のテーマになるなんて思いもしなかったけれどね。
ジョン・コルトレーン
Samo: コルトレーンを観たときのことを詳しく教えてください。
David: 場所はバードランドで、当時付き合っていた女の子と一緒だったんだ。実はその3ヶ月ほど前に、同級生に連れられて初めて足を踏み入れたばかりでね。だから最初、彼が何者なのかすら分かっていなかった。その夜出演していたのはコルトレーンとエリック・ドルフィーのグループだったんだけど、それも後で知ったことだよ。
最初に頭に浮かんだのは「これが家にある自分の楽器と同じ楽器だなんて、あり得るのか?」ということ。信じられなかった。同じ楽器のはずがない、って。もちろん同じ楽器なんだけどね。
そして次に感じたのが、その凄まじい熱量だった。自分なりに数年サックスを吹いて、いろんなジャズを聴いてきたつもりだったけれど、あんな強烈なものは聴いたことがなかった。まさに啓示だったよ。ただ、啓示というのは、それが自分の人生の中で実を結ぶまでに少し時間がかかるものなんだ。
そこから何年か経って、18か19歳になった頃だったかな。僕は決意した。「よし、これをやってみよう。しっかり学んで、上手くなれるよう努力しよう」とね。有名な誰かと共演できるかどうかなんて分からなかったけど、とにかく学ぶべきことが山ほどあることだけは分かっていた。
当時のジャズは独学だったんだ。今のようなスクールなんて存在しなかったからね。今なら、どこにでも音楽学校があるけど、僕らは「現場の叩き上げ」で学ぶしかなかった。学校とは正反対の現場でね。
面白いのは、僕と同世代のミュージシャンの多くが、今では教える立場になっているということだ。僕らは現場で学んで、後になって少しだけ学校に関わるようになり、今ではそうした教育機関で教鞭を執りながら、現役で演奏もして生計を立てている。
とにかく、1962年2月のあの夜が、僕の人生を変えたんだ。
ジョー・アラード
Samo: 現場での経験とは別に、サックスについては先生について学ばれていたんですよね?
David: そうだね。技術面での恩師と言えるのはジョー・アラードだった。彼はマイケル・ブレッカーやスティーヴ・グロスマンなど、多くのミュージシャンに教えていた高名な先生でね。ニューヨークのカーネギー・ホール・スタジオで週に一度レッスンを受けていた。指使いについてはクラシックではなかったから指導されなかったけれど、基礎の多くは彼から学んだものなんだ。
もともとブルックリンの地元の先生についていて、マウスピースの咥え方などの基本は教わっていた。でも17、18歳になって、もう少し本格的に取り組みたいと思うようになったんだ。
それで分厚いニューヨークのイエローページ(電話帳)で「音楽レッスン」とか「サックス・レッスン」の項目を引いてみたら、いくつか名前が出てきた。
母親が「電話して、自分で話しなさい」って言うから、自分で電話をかけて、「レッスン代はいくらですか? 時間はどれくらいですか? 場所はどこですか?」って聞いて回ったんだ。
「僕はまだ何も分かっていない若造ですが、しっかりとした指導を受けたいんです。ここ数年で習ったことより、もう少しレベルの高いレッスンをお願いしたいんです」と率直に伝えてね。そうしてたどり着いたのが、ジョー・アラードだったというわけさ。
彼との出会いは、僕の「サウンド」に対する概念を根本から変えてくれた。
レニー・トリスターノ
レニーは音楽そのものはもちろん、教師としても伝説的な存在だった。ドラムからフルートまで、あらゆる楽器を教えていたんだ。彼にピアノを習っていた友人の紹介で、事務所に電話をかけたら「来週来い」と言われてね。1回たった15分のレッスン。
最初のレッスンは印象的だった。サックス奏者にとっての難関の一つに、「最低音を柔らかく吹く」というのがある。彼は全盲だったけれど、自分でもあらゆる楽器を演奏するからその難しさを分かっていたんだと思う。僕が部屋に入っても、挨拶や名前を聞くこともなく、開口一番「何を吹くんだ?」とだけ聞かれた。「テナー・サックスです」と答えると、彼は言った。「最低音から最高音まで、B♭メジャー・スケールを吹いてみろ」と。
簡単そうに聞こえるだろう? でも問題は、最初の音、ミドルCのオクターブ下にある低いB♭でつまずいてしまうことだった。サックス特有の癖のようなもので、最低音を柔らかく出すには、別途習得しなければならない技術があるんだ。彼の前に立って何度も試したけど、まともな音が出ない。彼は壁にもたれて、目を閉じたまま立っていた。5、6回目の挑戦でいよいよどうにもならなくなったとき、彼は僕の方を指差してこう言ったんだ。「家に帰って練習してこい。低いB♭が吹けるようになるまで、戻ってくるな」。それだけだった。アドバイスも、何が悪いのかの説明も一切なし。
家に帰ってすぐジョー・アラードに電話をかけて、「有名なジャズ・ミュージシャンにレッスンを受けたんだけど、こんな課題を出された」と話したら、ジョーは「それはこういうことだよ」と的確に原因を教えてくれた。それでその壁は乗り越えられたよ。そこから1年ほど師事した。
レッスンを辞めた日のこともよく覚えている。当時の僕は、コルトレーンのライブがニューヨークであると、金曜日と土曜日は必ず観に行っていた。レッスンはいつも日曜日にあって、電車とバスを乗り継いでようやく通っていたんだ。
そのレッスンの前の晩も、バードランドかビレッジ・ゲートでコルトレーンの演奏を観たばかりで、僕は興奮しきっていた。「昨夜のコルトレーンは信じられないくらい素晴らしかった、まるで別世界のようでした」と話したら、彼はこう言い放ったんだ。「あいつらはろくに演奏なんてしてない。エルヴィンだってニューヨークに来てからまともに叩いていない。あれはただの騒音だ」とね。
その一言で、僕は彼と顔を合わせられなくなってしまった。それがレッスンの終わりだったよ。でも、彼から重要なことを二つ学んだ。一つは「メロディこそが至高である」ということ。もう一つは、「この音楽を学ぶには、ちゃんとした道筋がある」ということだ。ただジャングルを彷徨うように、行き先も分からず突き進むものじゃない。段階を踏んで進む道があるんだ。
当時、ジャズ専門の音楽学校はなかったけれど、自分より上手い人たちに問いを投げかければいい。それが友人であれ、ジョン・コルトレーンであれね。もちろん最後は自分自身でやり遂げなければならないけれど、「学び方」はきちんと存在する。それを知る前は、僕はこの音楽を一種の”ブードゥー教の呪術”のようなものだと思っていた。「持って生まれた才能があるか、ないか」だけで、学ぶ方法なんてなく、推測と試行錯誤と勘と幸運だけが頼りだとね。でもレニーは見せてくれた。音楽は体系立てて学べるものなんだ、と。おかげで、そこから確かに得るものがあったよ。
チャールズ・ロイド
僕の大親友で、初めて出会った本物のジャズミュージシャンはドラムのボブ・モーゼスだった。僕らは14、15歳の頃に初めて一緒に演奏したんだ。20歳の頃の僕は先生がいない時期でね。ボブは音楽一家に育っていて何でも知っていたから、「コルトレーンに一番近いサックス奏者は誰?」と聞いたんだ。そしたら「チャールズ・ロイドだ。彼のプレイにはコルトレーンの要素がたくさんある」と教えてくれた。それは後になって本当だと分かったよ。
それでロイドに会いに行こうと決めて、ハーフノートというクラブに向かった。彼はキャノンボール・アダレイと共演していてね。休憩中にバーに座っていた彼のところへ行って、「演奏、とても素晴らしかったです」と伝えたあと、思い切って「レッスンはしていますか?」と聞いてみたんだ。彼は僕をじっと見つめて、「No」と言った。でもそのあと、少し戸惑ったような顔をして——今でも昨日のことのように覚えているよ——数歩下がり、眼鏡を少し下げて真っ直ぐ僕を見た。そして言ったんだ。「でも、明日うちに来てもいいよ。住所は知ってる?」「はい」「じゃあ明日の1時に」。
そこから1年間にわたる彼との関係が始まったんだ。ほぼ毎週日曜日、グリニッジ・ヴィレッジにある彼と奥さんの住む家で過ごしたんだ。ブルー・ノートの向かいにある、元消防署だった建物の3階に住んでいてね。本物のジャズ・ミュージシャンと、あんな風にプライベートで時間を過ごしたのは初めての経験だった。スターになりつつあった彼の一番脂が乗っていた時期で、独特のヒッピーな雰囲気があって、演奏スタイルも本当に美しかった。
最後のレッスン代わりになったのは、キース・ジャレット、セシル・マクビー、ジャック・ディジョネットをニューポート・ジャズ・フェスティバルまで車で送っていったときのことだったかな。それから50年近く経って、ヘルシンキで食事に入ったら、そこに彼が座っていてね。数時間、一緒に楽しい時間を過ごしたよ。僕の人生の中でもかなり重要な出会いだったと思っている。
Samo: ロイドさんの自宅に通っていた1年間は、一緒にセッションをしたりもしたんですか?
David: いや、そういうことはなかった。ただ一緒に過ごしただけだよ。フットボールの試合を観たり、マリファナを吸ったり、彼が住んでいたグリニッジ・ヴィレッジを散歩したりね。どちらかというと、ただの日常的な付き合いだった。でも、その人の本質を知ろうと思ったら、そういう何気ない時間がすごく大事なんだよ。
ジャズを学ぶということは、学校であれ現場であれ、結局のところ「語り継がれるもの」であり「物語」なんだ。僕が今こうして話しているのも、彼らがひとりの人間としてどう生きていたかという物語だ。もっと深く語り尽くそうとすると10日間くらい必要だけどね。
ある意味、こうした物語こそが僕にとっての「教材」なんだ。あの時代を生きてきたおかげで、僕の中にはこういう話がたくさんあるからね。僕にとってのチャールズやジョー・アラードとの思い出は、まさに”本物”の体験だったんだ。
Samo: 他にはどのようにして学んでいたんですか? レコードを買って耳コピしたり?
David: そうだね。レコードをひたすら聴き込んだりしたよ。それに、たくさん質問もしたし、ピアニストの後ろに立ってボイシングを覗き込んだりもしたよ。僕自身ピアノも弾けたから、そうやって学ぶことがいかに重要かは分かっていたんだ。でも基本的には、現場の空気を肌で「吸収する」ような学びだった。
僕はブロンクスにあるニューヨーク大学に通っていた。だから昼間は学生生活を送り、夜になるとヴィレッジに繰り出して遊んでいたんだ。大学ではアメリカ史を専攻していて、学校生活もすごく楽しんでいたよ。
でも実際のところ、音楽を学ぶのは試行錯誤の連続だった。後になってマイルスやエルヴィンと一緒に演奏できる機会を得られたのは幸運だったけど、基本的に僕らは独学でやるしかなかったんだ。あの時代のミュージシャンの多くは、あまり音楽について語りたがらなくてね。年に150〜200回もステージに立っていたから、わざわざ言葉にする必要がなかった。それだけ演奏していれば自然と身につくから、何も言う必要がないんだ。
もちろんチャールスのようにとてもオープンな人もいたし、ディジー・ガレスピーも親切なことで知られていて、ピアノの前に連れて行って弾いて見せてくれたりした。一方で、少し冷たいというか、いわば「テストに合格しないといけない」ようなタイプの人たちもいた。そのテストとは「お前は本気なのか?」ということ。ただの冷やかしや、単にミュージシャンとつるみたいだけなんじゃないか、とね。「これは遊びじゃない、真剣勝負なんだ。お前が本気で向き合っていると証明できるまでは、何ひとつ教えないぞ」というわけだ。だから彼らとのコミュニケーションは、そういう”本気の段階”をクリアして初めて成立するものだったんだよ。
エルヴィン・ジョーンズの現場
Samo: どのような経緯でエルヴィンのバンドに参加することになったんですか?
David: 当時のニューヨークは、ジャズミュージシャンがそれほど多くなくてね。だから、毎晩のように街に出て顔を出し続けていれば、自然とお互い顔見知りになっていく。1杯2ドルのビールを飲みながら、夜な夜な通っていればね。そういう砕けた場で、みんな仲良くなっていくんだ。「どこで演奏してるの?」「どこに住んでるの?」なんて聞かれたりしてね。ただ、彼らの多くはさっきも言ったように「こいつは本気なのか」を見極めようとしていた。
そんな感じでエルヴィンも僕のことを何となく知っていたと思う。1968年にタウン・ホールでエルヴィン・グループとローランド・カークのコンサートがあって、僕らのバンドがその対バンを務めたんだ。彼はそこで僕を知ったんだと思う。当時僕は22歳。
でも決め手になったのは、ベーシストのジーン・パーラだった。彼がウィルバー・リトルの後任として、エルヴィンのベーシストの座を得たんだ。僕らのコミュニティにとって、これは大事件だった。何しろ僕らの世代で、あれほど有名なミュージシャンのバンド。しかもエルヴィン・ジョーンズのベースの座に抜擢されるなんて、初めてのことだったからね。ベースとドラムはまさにこの音楽の心臓部だから。
ジーンは物事をまとめるのがとても得意な男で、レコーディングの手配なんかも引き受けていて、エルヴィンにとってなくてはならない存在になっていったんだ。
ある夜、11時半か12時くらいに電話が鳴った。ジーンからだった。ごく短く、要点だけ。「エルヴィンが今すぐお前の演奏を聴きたいと言っている」。僕はタクシーを飛ばして、街の反対側にあるクラブ、”スラッグス”に向かった——後にリー・モーガンが撃たれることになる、あのクラブだ。深夜0時半、店には10人くらいしか客がいなかった。エルヴィンはバーでサックス奏者のジョー・ファレルと飲んでいた。
僕が店に入っていくと、彼はあの低い声で「準備はできてるか?」とだけ聞いてきた。恐怖という言葉では足りないくらい緊張したよ。何しろ、コルトレーンの後ろで叩くエルヴィンを何百回と観てきたんだから。「できていると思います」と答えると、彼は「楽器を出して、ステージに上がれ。何曲かやるぞ」と言った。
エルヴィン、ジーン、僕の3人で30分ほど演奏したんだ。ジョー・ファレルはバーに座ったままでね。あれは一種のオーディションだったんだと思う。「Softly, As in a Morning Sunrise」「Night in Tunisia」「Yesterdays」——そんな曲をやった。終わってステージを降りると、彼が近づいてきてこう言ったんだ。「来週、ルディのスタジオでレコーディングがある。場所は分かるか?」「ルディ・ヴァン・ゲルダーのことですか? もちろんです」。「朝10時に来い。曲を1曲、持ってこい」とね。
その曲が「Slumber」——僕にとって最初のレコード『Genesis』に収録されている曲だ。あのレコーディングは全力投球だったよ、本当に衝撃的な体験だった。
それから半年後——ある日の朝4時、電話が鳴った。当時、僕は世界貿易センター近くの、チェンバーズ・ストリートのダウンタウンに住んでいた。電話の主はエルヴィンの奥さんで、日本人のケイコだった。彼女は本当にいつも彼に寄り添い、すべてを取り仕切っていた。「デイヴィッド、エルヴィンが今日の午後、シカゴの学校で一緒に演奏してほしいって。ラガーディア空港発のチケットはもう用意してあるわ」。「うわ、マジか」と思いながら、朝8時にシカゴへ向かった。
昼間は高校か大学のちょっとしたステージで演奏したんだけど、それ自体は大したことじゃなかった。夜になってクラブでの本番があった。彼はとてもフレンドリーで、「ホテルに戻ったら、俺の部屋に来い。話がある」と言った。
行ってみると、彼はサムライみたいな服を着ていた。ケイコが完全に日本の文化を持ち込んでいたからね。手元には小さな日本酒の瓶があって、煙草を次から次へと吸っていた。そして言ったんだ。「俺のバンドに入ってほしい。どうだ?」。もちろん、「はい」と即答したよ。「よし、あとの事務的なことはケイコがやる。お前は今夜からこのグループの一員だ」。
Samo: そのとき、スティーヴ・グロスマンはもうバンドにいたんですか?
David: いや、まだだよ。当時はジョー・ファレル、フランク・フォスター、ジョージ・コールマン、それからクリフォード・ジョーダンだね。夜によってそのうちの誰かが出演していたけど、常にサックスが2本いたわけじゃない。チック・コリアがピアノで入ってカルテットとして何度か演奏したこともあった。
まさに夢を見ているようだった。何しろ、自分が誰よりも聴き込んできた人物なんだから。現実だなんて信じられなくて、自分をつねって確かめたくなったよ。コルトレーンが亡くなった後の1969年から70年にかけての時期で、あのエルヴィンでさえ小さなクラブで演奏してどうにか生計を立てているような状況だった。それでも僕にとっては、まさに「正しい時に正しい場所にいた」という幸運な出来事だったよ。
スティーヴ・グロスマンが加入したのはそれから半年ほど後のことだ。そこからコード楽器のない編成になった。このカルテットで録音したのが『Live at the Lighthouse』で、あの時代を象徴するレコードになったわけだ。
さらに一時期はドン・アライアスがコンガで参加していたこともあって、バンドに素晴らしい要素を加えてくれた。エルヴィンとコンガの組み合わせなんて想像しにくいかもしれないけど、信じられないくらい素晴らしい空間になっていた。録音は残っていないけど、伝説的なセッションだったよ。
Samo: あなたが書いた「New Breed」や「Small Ones」、「Bright Piece」といった曲も録音されていますが、エルヴィンはメンバーの曲も取り入れてくれるリーダーだったんですか?
David: そうだね。誰かが曲を持ってくれば「やってみよう」という感じでリハーサルをしたり、ぶっつけ本番で演奏することもあった。レパートリーは10〜15曲くらいで、ほぼ毎晩同じ曲を演奏していたよ。
あの世代のミュージシャンは、同じ曲を何度も何度も繰り返し演奏することがよくあったんだ。それでうまくいっていたし、観客もそれを気に入っていたからね。美しいものをわざわざ壊す必要なんてないだろう? 実際、僕自身もここ1年半、同じバラードをずっと演奏し続けている——これはまた別の話だけどね。
とにかく、あの世代のミュージシャンたちは同じフォーマットを守り続けていて、僕らの仕事といえば、そのフォーマットの中で「自分らしい音」を見つけることだったんだよ。
マイルス・デイビスとの遭遇
Samo: これはもう何度も聞かれた話だと思いますが、マイルスへとどう繋がったのか教えてください。あなたはすでにエルヴィンのバンドにいましたよね。エルヴィンとマイルスは知り合いだったんでしょうか?
David: いや、二人に直接的な接点はあまりなかったはずだ。最初のきっかけは1972年の6月1日だった。実家のあるブルックリンに滞在していて、ちょうどダウンタウンの病院にいたんだ。すると突然、受付の女性が「デイビッド・リーブマンさんはいますか? お母様からお電話です」と叫んだ。
母は「テオ・マセロという人から電話があったわよ。今すぐマイルス・デイヴィスとレコーディングするためにスタジオに来いって」と言うんだ。テオは長年マイルスのプロデューサーを務めていた人物だ。
たまたまサックスを持っていたのは、本当に幸運だったよ。もしあのとき楽器がなかったら、あのチャンスを掴めず、マイルスとの縁もなく、今こうして話すこともなかったかもしれない。
チック・コリアやデイヴ・ホランドがマイルスとセッションをしていることは知っていたから、これが何を意味するのかはすぐに分かった。おそらく10時から13時までのセッションで、そのときの時刻は11時半ごろだったと思う。だから僕は狂ったようにブルックリンを飛び出して、スタジオがあるマンハッタンのマディソン・アベニューと52丁目の交差点のど真ん中に車を無理やり停めて駆け込んだ。
スタジオに着いたのは12時半頃だった。僕はブースとスタジオの間の廊下に立ち、ガラス越しにマイルスたちを見ていた。スタジオの中はまるで映画『天地創造』みたいな光景だった。ジョン・マクラフリン、チック、ドン・アライアス、ハービー・ハンコック、マイケル・ヘンダーソン、コリン・ウォルコット、ラリー・ヤング、ジャック・ディジョネット、ビリー・ハート、タブラのバダル・ロイ、それにキーボードのハロルド・ウィリアムス……みんな静かに座っていた。するとマイルスが僕に気づいて、入ってこいと合図をしてきた。誰も口を利かない。
マイルスはジャックの隣に立って、何かを耳元で囁いていた。何を言っているのかは分からなかったけど、彼はいつもそうやって音楽を伝えていたんだ。言葉少なに、何かを呟く。それだけ。ジャックは「オーケー、オーケー」と頷いていた。
スタジオの真ん中には大きなブームマイクがあって、明らかにマイルス用のものだった。彼が「よし、行くぞ」と言うと、演奏が始まった。マイルスは指を動かして「楽器を出せ」と合図し、僕をその巨大なマイクの前に呼び寄せた。そして僕の背中に手を添えてマイクへと押し出したんだ。
それが『On the Corner』のタイトルトラックになった。
ちょうどそのセッションの最後の曲で、僕が参加したのは15分だけだったんだ。当時、セッションは3時間と決まっていた。それを超えるとレコード会社が倍のギャラを払わなくちゃいけないから、絶対にオーバーしないようにしていたんだ。
セッションが終わって、荷物をまとめていると、マイルスが帰り際に僕のそばを通り過ぎた——後で知ったんだけど、彼は録音したカセットを受け取ると、いつも真っ先に帰るタイプだった。すると彼は僕を見て「俺のバンドに入れ」と言った。僕が「それはできません、僕はエルヴィンのところにいるので」と答えると、彼は「知るか」とだけ言って立ち去っていった。このときチャンスを逃したのかどうか、自分でも分からなかった。それきり、数ヶ月間は何もなかった。
Samo: それはさぞ気を揉んだでしょうね。
David: そうだね。それから1973年の1月の第2週、僕はエルヴィンとヴィレッジ・ヴァンガードで演奏していた。するとその週の火曜の夜、ライブが始まる直前にマイルスがフラッと現れたんだ。もともとマイルスとオーナーは知り合いだったんだけど、オーナーのマックス・ゴードンも不思議がって「ここで何してるんだ?」と聞くと「ただ遊びに来ただけだ」と。彼はトランペットも持たず、取り巻きも女性も連れず、たった一人で来たんだ。
その晩は、当時付き合っていた僕の彼女に話しかけたり、僕にも少しずつ話しかけてきたりした。当時、スティーヴ・グロスマンはすでに僕らと一緒にエルヴィンのバンドにいたんだけど、マイルスが来ているのに一言も話さなかった。少し前に一緒に演奏していたはずなのに、奇妙だったよ。二人が言葉を交わした記憶すらない。一方でエルヴィンの方は、「あの小せえ野郎(マイルス)、絶対何か企んでやがるな」と警戒していたよ。
そしてマイルスは水曜日の晩もやって来た。彼は明らかに僕をスカウトしに来ていたんだ。「もうそんな古臭いのはやめて、21世紀の音楽をやろうぜ」みたいな態度だった。それでその晩、彼が単刀直入に決断を迫ってきたんだ。「俺のバンドに入れ。どうするんだ。やるのか、やらないのか」。僕は「エルヴィン次第です。彼は僕の”父親”みたいな存在ですから」と答えた。細かい説明はしなかったけど、そういう空気を伝えたんだ。彼は「分かった」とだけ言った。
僕はニューヨークから1時間半くらい離れたところに住んでいたんだけど、朝の4時半に帰宅すると、電話が鳴った。マイルスからだった。「エルヴィンがOKだと言った。金曜と土曜はヴィレッジ・イーストで俺と演奏しろ。それからエルヴィンのところに戻って来週のボストンでのライブをこなせ。それが終わったら、お前は俺のものだ」。
そうして迎えた金曜日の夜が、マイルスとの正式な初ステージになった。
その日、僕は完全にパニック状態だったよ。何が何だか分からなかった。轟音とカオス、彼は黒ずくめで黒いサングラス。アル・フォスター以外は誰も知り合いがいなかったんだ。でも彼がいたのは幸いだった、たまたま繋がりがあったからね。他のメンバーのことは知ってはいたけど、個人的な面識は一切なかった。
翌週、ボストンでのライブがあって、それでエルヴィンのところは終わり。彼は「頑張れよ」と送り出してくれた。
1973年1月に、僕はマイルスのバンドでの活動を始めた。彼との経験を話すと、本一冊分くらいのボリュームになるけど、要するに、あれほどの人物のそばに立つと、本当にたくさんのものを得られるんだ。あの世代の人たちはあまり多くを語らなかったと言ったけど、マイルスも例外じゃなかった。音楽について話すことはほとんどなかったよ。
Samo: 「ここはこう吹け」とか方向性を指示することもなかったんですか?
David: 全くなかった。彼が吹き、僕らはそれについていくしかない。何が起きるのかは誰にも分からなかったし、正直、時々は彼自身も自分が何をしているのか分かっていなかったんじゃないかと思う。
数ヶ月は手探りだったよ。でも半年くらい経ったある夜、ようやく自分の中で「材料」が揃った瞬間があって、突然理解できたんだ。「分かったぞ、あなたが何をやろうとしているのか」ってね。
アフリカ的なもの、宇宙的な広がり。ドラムマシンが単調な音を刻む中で、まるで2000年代に流行るような音楽が、あの当時すでにステージ上で起きていたんだ。ギタリストのピート・コージーはクレイジーな演奏をしていて、ギターを弾く合間にパーカッションまで叩いていた。とにかく型破りだったよ。
でも、あの経験こそが僕のキャリアを決定づけたんだ。マイルスのバンドを出た後は、自分のバンドを持って自分の音楽を作ることが「期待される」し、実際にその責任を果たさなきゃいけない。「さあ、次はお前自身の音楽で何をするんだ?」と問われるわけだから、もう後戻りはできない。そうやって道が開けていったんだ。
ECMの始まり
ECMのマンフレート・アイヒャーがベルリン・ジャズ・フェスティバルに来ていて、ギグを終えてステージを降りた僕に「うちのレーベルでレコードを作らないか?」と声をかけてきたんだ。最初の年は実現しなかったけど、翌年に実現して、それが『Lookout Farm』になった。
エルヴィンとマイルス、この二人との日々……それともう一人、1969年に僕の最初の師匠となったピート・ラロカのことも忘れずに挙げておかなきゃいけないな。
あの3、4年間は、僕にとって大学の「学士・修士・博士課程」のようなものだった。若くて、ハングリーに学んでいて、巨匠たちのすぐ横で演奏していた。あの時期は、人生で二度と繰り返すことのできない、本当に特別な時間だったよ。
メンバーの選び方
Samo: 『Lookout Farm』ではジョン・アバークロンビーがゲスト参加していますが、メンバーはどうやって選んだんですか?
David: 実は、彼らとはすでに一緒に演奏していたんだ。「自分の音楽を持つ喜び」や「自分のバンドを作る」という考えが、ずっと頭の中にあってね。いずれマイルスの元を離れることになるし、その時のために何か自分の音楽をやらなきゃいけない、と分かっていたんだ。
だから、リッチー・バイラーク——彼との関係はすでに1969年に始まっていたけど——や、ベースのフランク・トゥーサ、ドラムのジェフ・ウィリアムスたちと関係を築いていった。一時期はバダル・ロイが参加していたこともある。いつかリーダーとして独り立ちする日が来ることは分かっていたんだけど、それが実現したのが1974年の半ばだった。
Lookout Farmとしての最初のギグは、たしか1974年6月、コネティカット州ウェストポートで、対バンはラリー・コリエルのグループだったよ。
当時、僕はロフト(古い工業用建物を改装した住居)を持っていてね。あのロフトの時代は、僕の人生においても、ひとつの独立した重要な章になっている。たくさんのミュージシャンが集まれて、誰でも好きな時に来られたんだ。
Samo: ロフト・シーンについてはいろいろ読んできましたが、今読み返すと「これはすごすぎる」と感じてしまいます。デイヴ・ホランドやチック・コリアがふらっとやってきてジャムったとか、マイケル・ブレッカーが来たこともあった、とか。実際、どんなふうに集まっていたんですか?
David: 完全に自由だったよ。「明日の3時にどう?」なんて誘って、それが5時になったりね。僕らはいわゆる「工業用の建物」、つまり元々は工場だった場所に住むことができたんだ。地域によって事情が違って、ソーホーの工場とチェルシーの工場では少し勝手が違ったけど、僕らは賃貸契約を結んで家賃を払っていた。本来は人が住んではいけない場所だったのに、みんな住んでいたんだ。
ホットプレートと小さな冷蔵庫があって、廊下にトイレ、シャワー室もかろうじてある程度でね。ロマンチックで面白そうに聞こえるかもしれないけど、実際はかなり過酷だったよ。今日みたいに暑い日は、どうにもならなかった。
でも、あの自由な空気感は、フリー・ジャズのムーブメントとも深く結びついていたんだ。僕らは、フリー・ジャズの誕生からその終焉に至るまでの全てが、60年代のうちに起こったのを目の当たりにしていた。コルトレーンの『Ascension』があの時代を集約している一枚だね。
そして僕らがロフトでやっていたのは、まさにあの『Ascension』のような世界だったんだ。巨匠たちの後を追うようにして、6〜7時間ぶっ通しでフリーな演奏をしていた。あの頃のテープなら、永遠に聴き続けられるくらい残っているよ。一緒に演奏して、録音して。誰かが皿の上でドラムスティックを叩き出したりね(笑)。
僕らはジャズミュージシャンであると同時に、ヒッピーでもあったんだ。ベトナム戦争、ドラッグ、フリーセックス——そういう時代の空気を全部纏っていたし、そこにジョン・コルトレーンやジャズ、そして黒人の権利運動への意識も重なっていた。基本的に黒人文化が中心のシーンだからね。僕らはまさにその渦中にいたんだ。
ロフトでは週末も夜も音を出せたから、昼間に演奏できなくても問題なかった。というのも、大抵のセッションは朝5時頃まで続いていて、帰宅して少しクールダウンしたあと、昼の2〜3時まで眠るような生活だったからね。起きてからその日の用事を済ませる。といっても大した用事はないんだけど。あれはニューヨークの歴史にとっても重要な時代だった。
やがてウォール街の連中もロフトの魅力に気づいてしまってね。家賃が高騰して、「素敵なアンティーク家具を置ける、広くてロマンチックな部屋」として扱われるようになってしまった。そうして70年代後半には、アーティストたちが芸術的探求のためにロフトを使う時代は終わりを迎えたんだ。
鉄のカーテンを越えて
Samo: 先日、図書館でユーゴスラビアのジャズフェスティバルについて書かれた本を見つけて、あなたが1975年に演奏していたことを知ったんです。当時はまだ新人リーダーとして、世界中を飛び回っていましたよね。大学で歴史を専攻していたから地理や情勢には詳しかったとは思いますが、すごい場所に行っているという実感はありましたか?
David: 普通の人よりは分かっていたと思うけど、でも、パリやロンドンならまだしも、僕らはユーゴスラビアに行き、ブダペストに行き、プラハに行っていたんだからね。当時僕は25〜27歳で、かなり特殊な経験だったと思うよ。
僕らの仲間は、まるで一つの「部隊」のようなコミュニティだった。パリから始まって東へ東へと進軍していくような感じでね。同時期にツアーをしているバンドがたくさんあったから、道中や空港で、必ず顔なじみのミュージシャンたちに会うんだ。あれは本当に素晴らしい時代だった。
70年代のニューヨーク
当時はとても安く生活できた。ロフトの家賃だって、人気が出るまでは安かったし。チャイナタウンにあるお気に入りのレストラン「ウォー・ホップ(Wo Hop)」には、みんな朝の4時くらいに集まって一晩中たむろしていたよ。
何よりあの時期は、僕らが自分たちの腕を磨き上げていた時代だったんだ。僕らはフリー・ジャズをそのままやり続けたわけじゃなかった。スタイルを少し「後戻り」させて、伝統的な要素に回帰していく仲間も多かったからね。
その2〜3年の間、僕は「フリー・ライフ・コミュニケーション」という組織の代表を務めていた。ニューヨーク中でコンサートを開催するための組織だったんだ。最終的には、ある偉大な篤志家から寄贈された2000平方フィートのフロアを拠点にすることができた。
古い教会を改装した建物で「革新的発展のためのスペース」と呼ばれていた。映画やビデオの設備とか、とにかく何でも揃っていたんだ。改装には100万ドルかかっていて、大規模な助成金が出ていたんだけど、僕らはその受給者になった。なぜって、僕らこそが当時の「アヴァンギャルド・ジャズ」を代表するようなグループだったからね。
なぜECMだったのか
Samo: 正直に言うと、ECMで録音していたと知ったときは驚いたんです。今では伝説的な名盤として高く評価されていますが、あなたとECMサウンドが結びつきませんでした。
David: 『Lookout Farm』と『Drum Ode』は、僕がやってきた他のどの作品ともまったく違うものだったからね。「リーブマンがあのレーベルにいるなんて思わなかった」と思うのも無理はないよ。たっぷりとした間があって、ビバップとは無縁のサウンド……まあ、これは話せば長くなるんだけどね。
そもそもどうやって始まったかといえば、プロデューサーのマンフレートが「うちのレーベルでレコードを作らないか」と声をかけてくれたのがきっかけだったんだ。3枚目を作る予定もあったんだけど、ちょっとした意見の食い違いがあって、それきり録音することはなかった。ただ後になって、スティーヴ・スワロウのリーダー作『Home』には参加したけどね。
そこから話はさらに大きくなっていく。というのも、次にA&Mレコードと契約することになったからね。当時ピーター・フランプトンやキャロル・キングを抱えていたような、トップクラスのアメリカのロック系レーベルだよ。そこが”Horizon”というジャズ部門を立ち上げて、責任者のジョン・スナイダーが僕に声をかけてくれた。彼はデイヴ・ブルーベックの次に、僕と契約したいと言ってくれたんだ。彼のもとでは3枚のレコード(『Sweet Hands』、『Forgotten Fantasies』、『Light’n Up, Please!』)を作ったよ。
70年代というのは僕にとって「学びの時代」であり、同時に「バンドリーダーとして本格的に世に出た期間」でもあったんだ。6〜7年の間に、そういうことが一気に起きていた。1976年にはサンフランシスコに拠点を移して、ピー・ウィー・エリスとバンドを組んだりもしてね。
正直、当時の自分がどうやってこれ全部をこなしていたのか、想像もつかないくらいだよ(笑)。
演奏形態と音色の探求
Samo: あなたとリッチー・バイラークの、あの素晴らしい関係はどうやって築かれたんですか?
David: 僕らが出会ったのは60年代後半だった。その後の10年間で、僕はいくつものロフトへ引っ越しを繰り返したんだけど、彼とはいつもご近所同士だったんだ。なにしろあの頃の僕らにとっては「マンハッタンがすべて」だったからね。彼はブルックリンになんて絶対に足を向けようとしなかったし。
僕らはとても気の合う関係だった。プライベートでもすごく仲が良くて、好きなものも同じ、ちょっとハイになって楽しい時間を過ごしたりもしたけど、それ以上に、音楽について話すのが大好きだったんだ。
『Lookout Farm: A Case Study of Improvisation for Small Jazz Group』という本は、僕らが「録音の前に何をしようとしていたか」「録音の後にどうだったか」を語り合った内容がまとめられているんだ。「これが僕らの計画だ」というところから始まって、実際にレコードができて——昔よく雑誌やお祭りの景品についてきたような、ペラペラのプラスチックのレコード(ソノシート)が付録についていてね——それを聴きながら、完成した音源についてコメントし合う。5曲分くらいそういうことをやって、1曲につき5〜10ページくらい語り尽くした本なんだよ。
僕らは音楽について語るのが大好きだった。コルトレーン、ビル・エヴァンス、マイルス……彼らの音楽をずっと聴いてきたし、それが僕らの「栄養」であり「弾薬」だったんだ。ポール・ブレイのことも話したね、ビルについては言うまでもない。とにかく、そういう場で意気投合したんだ。
僕はサックス奏者だからピアニストが必要で、彼にとっても自分のメロディを解釈してくれるホーン奏者が必要だった。だから、理屈の上でも、人間的な相性の上でも、完璧に理にかなった関係だったんだよ。
Samo: スタンダードをやっても、フリーな演奏をしても、いつも見事に溶け合っていますよね。40年以上も続く音楽的な関係を、どうやって新鮮に保ち続けているんでしょうか?
David: まず第一に、単純にたくさん一緒にやってきたということ。とにかく大量に共演していた時期があったんだ。第二に、ステージを降りた後も、そこで学んだ教訓を心に留め、相手と共有しようと努めること。
デュオというのは、ある意味それがやりやすい形態なんだ。二人だけならどうにでもなるけど、4人、5人になると途端に複雑になる。デュオでは、文字通り「一切の誤魔化しがきかない」。ステージの上で丸裸なんだよ。
すべての音が聴こえてしまう。僕がソプラノサックスで出す最初の1音のピッチが外れていたらアウトだし、タイミングも完璧じゃなきゃいけない。ドラムの音圧でごまかすことはできないからね。
ドラムを外すというのは、ある意味でジャズという音楽の根幹を変えることだ。ジャズにおいてドラムはすべてだからね。
ただ、その分、音楽の中に空間と間が生まれる。音の始まりと終わり、ブレス、ビブラート、タンギング——ホーンを演奏する上でのあらゆるニュアンスがより前面に出て、より露わになるんだ。カルテットやクインテットだと、結局のところドラムが全体をコントロールしてしまうことが多いからね。
独りで舞台に立つということ
Samo: あなたはトリオやカルテット、クインテットなど大きな編成でも演奏しますが、ソロでも演奏しますよね。『The Loneliness of a Long Distance Runner』はよく話題になる作品ですが、ソロ・パフォーマンスにはどうやって向き合っているのでしょうか?
David: それはもう経験がものを言う世界だね。ソロだとほぼ確実に吹きすぎてしまう。それが一番の危険なんだ。誰も止めてくれる人がいないから、ついやりすぎる。でもそれは悪気があるわけじゃない。他にどうしたらいいか分からないからやってしまうんだ。「自分には高度なテクニックがあるんだから、いっそ使ってしまおう」という具合にね。
でも何年か経つと、「テクニックは伝えるべきメッセージのほんの一部に過ぎない」と気づき始める。もちろん優れた技術を持つことは大前提だし、だからこそ我々はヴァーチュオーゾでなければならない。でも、その技術は慎重に、賢く使わなきゃいけない。音楽そのものをより良くするためにね。そして、あえて「間」を残し、すべてを吹ききらないことで、観客をより深く音楽に巻き込むことができる。
僕のウェブサイトの「Articles of Education」に、ソロ・サックスについての記事を載せているんだけど、まさにそういった「気づき」について書いているんだ。リスクを冒して挑戦することも大事だけど、しばらくすると「何が良いサウンドを生むか」が分かってくるようになる。
https://davidliebman.com/home/articles/
トロンボーン奏者のアルバート・マンゲルスドルフに聞いたことがあるんだ。彼は素晴らしいソロ・コンサートをやる人で、3000人の前でソロ演奏をしたこともある。
「アルバート、トロンボーンでたった一人、しかも何千人もの観客を前にして演奏するとき、何を考えているんですか?」と聞いたら、彼はこう答えたんだ。「寂しいなってことだよ」って。
それで会話は終了だ(笑)。一緒に過ごすメンバーもいなければ、話しかける相手もいない。ステージを降りても、そこにあるのは「自分が鳴らした音」が真正面から自分を見つめ返してくる、その現実だけなんだ。僕は「ああ、なるほど。それは考えてもみなかったな」と理解できた気がしたよ。
それこそ「丸裸になる」ということなんだ。誰の後ろにも隠れられないし、すべての責任を負うことになる。まさに『Long Distance Runner(長距離走者)』だよ。あれは何もかもを自分自身で背負わなければならなかったからね。
「Water」から「Earth」へ
Samo: あなたのアルバムにはいつも、背景に様々なストーリーやコンセプトがありますよね。 例えば1997年の『Water: Giver of Life』など。
David: あれはパット・メセニーと一緒に作った作品で、”水”という元素を祝福する内容なんだ。同じシリーズで”火”や”土”も作っていて、その一連のシリーズの第一弾が、あの”水”だった。
Samo: 『Earth』に収録されている「Volcano」や「Concrete Jungle」のメロディなんかは本当に素晴らしいです。このアルバムのアイデアはどこから来ているんですか?
David: 『Earth』の音楽的な特徴は、インターバルを曲の構造に取り入れていることなんだ。ライナーノーツにも書いたと思うけど、そうやって全体のサウンドをまとめているんだよ。
もう一つの要素として、ボビー・エイヴィーとマット・ヴァシリシャンの二人にシンセサイザーを弾いてもらったこと。いわゆる現代的な新しいサウンドだね。それによって”色彩”というアイデアをより強力に押し出すことができるようになったんだ。
ああいうサウンドを扱う上で、一番大事なのは”色彩”だ。ハーモニー、メロディ、リズム、フォーム——これが伝統的な4つの要素で、5番目の要素が”色彩”、つまり音そのものの質感なんだよ。
だからどんな音色を出すかについては細かい指示は出さず、彼らに自由に選択してもらった。「何かやってみてくれ。気に入らなければ言うし、気に入ればそのままいくから」というスタンスでね。彼らは音選びのセンスが抜群だった。今でもライブのステージでは同じアプローチをとっているよ。彼らの生み出す色彩が、この作品に新しい要素を加えてくれたんだ。
それからもう一つは、具体的な情景を音で描いているという側面だね。コンクリート・ジャングル、火山、サハラ砂漠、エベレスト……これは地球という惑星そのものを祝福する試みなんだ。その背景には、「僕らがこの惑星に対して何をしているか」という現実へのメッセージも込めている。
みんなが思っている以上に、音楽的にしっかりと構成されているということだ。一見すると「好き勝手にフリーで演奏しているだけ」に聴こえるかもしれない——実際そういう部分もあるんだけど——でも、僕が強くこだわった”内なる秩序”がちゃんと存在しているんだ。
「この曲をやる時は4度と5度の音程にとどめよう」「この曲では2度の音程だけを使おう」というふうに、できる限りそのサウンドのルールを守らせた。各曲が同じように聴こえてしまわないようにね。
レコーディングの流儀
Samo: リーダー作だけでも500枚、あるいはそれ以上のレコードに参加されていますよね。それらのアルバムは全部ご自宅に置いているんですか?
David: 昔は集めていたけど、今はもうそこまでではないな。自分がリーダーの作品ならともかく、サイドマンとしての参加作まで含めるとキリがないからね。
リッチー・バイラークとは、これまで一緒に60枚くらいのレコードを作ってきたんだけど、僕はとにかくレコーディングが好きなんだ。
でも、エルヴィンとのレコーディングは、本当に緊張しきっていたよ。なにしろ、人生で初めてのレコーディングだったんだから。ものすごく怖くて、萎縮していた。もちろん、エルヴィンは意地悪でそうしていたわけじゃないんだけど、彼には1テイクで次々に進めていくという容赦のないペースがあったんだ。「Slumber」という曲の最初のテイクを録り終えた瞬間、僕は『うまく吹けなかったからやり直したい』と思っていたのに、彼は間髪入れずに『次!』と言い放ったんだよ。プロデューサーみたいに時計を気にしながらね。
「え、もう一回チャンスはもらえないんですか? 世の中にはテイク2っていう概念がありますよね?」と戸惑ったよ。だから僕は、レコーディングというものにひどく身構えて、怯えた状態でキャリアをスタートさせたんだ。
その点、マイルスとの経験は良かった。彼はスタジオを、まるで自分のリビングルームのように扱っていた。ただ指をさして合図を出して「お前の番だ」という感じだったんだ。僕らはフリーで演奏していて、目の前に譜面もない。でも曲の構成や、ソロの順番なんかはちゃんと決まっていた。
70年代半ばになる頃には、僕もようやくスタジオでリラックスできるようになっていて、今ではスタジオが一番好きな演奏場所になっているよ。理由はシンプルで、その場で色々変えることができて、しかもすぐに聴き返せるからなんだ。
マイルスがまさにそうやって仕事をしているのを見てきた。彼は左に行こうとしていたはずなのに、何か新鮮なことが起きると、その場でパッと方向を変える。とても自然発生的だったんだ。彼はレコーディングの中にも即興の精神を保とうと努めていた——それはとても難しいことなんだけどね。
例えばソニー・ロリンズなんかは、レコーディングが大嫌いなんだ。スタジオでの録音を聴けばそれがよく分かるよ。マイクから外れたところで吹いたり、演奏してからチューニングを直したりしている。彼にとって、スタジオという環境ではそこにあるべき自発性が失われてしまうんだ。赤いランプが点いて、それがやがて緑に変わる。緑になったら「さあ、成果を出せ」と強要される。
でも彼の言い分にも一理あってね。ジャズとは即興そのものなんだから、「12時20分に吹いたテイクと、12時30分に吹いたテイクに、一体何の違いがあるというんだ? どちらもその瞬間の真実じゃないか」 というわけだ。つまり彼にとっての「生涯の作品群」とは、レコードという切り取られた断片ではなく、彼の一生の演奏全体を指しているんだ。スタジオ録音はその巨大な流れのほんの一瞬を切り取ったものに過ぎない。彼がそういう捉え方をしていることは、僕にもよく理解できる。
でもマイルスの場合は、明らかにスタジオが好きで、居心地よく感じているのが伝わってきた。まるで彼の家みたいにね。フランク・シナトラが1500人の観客を前にステージに立つときのようなものだよ。煙草を吸ってドリンクを飲みながら、「ちょっと待って、すぐ戻るよ」なんて余裕でこなしてしまう。それくらい、マイルスにとってスタジオは”我が家”だったんだ。
だから僕が数多くのレコードに関わってきた理由は、こういうことなんだと思う。僕はテープに音を記録して、その責任を持つという行為が好きなんだ。DNAを見るために顕微鏡を覗き込むように、自分たちがやっていることをじっくり見つめることで、どれだけ多くのことを学べるか。マイクというのは、まさにそれをやってくれる装置なんだ。だからこそ、常に自分を律して、レベルを上げ続けなければならない。マイクは決して容赦してくれないからね。
インタビュー登場作品一覧
Samo SalamonのYouTubeチャンネル
今回のインタビュー動画を公開しているのは、スロベニア出身のギタリスト、Samo Salamon(サモ・サラモン)さんのYouTubeチャンネルです。
ジャズミュージシャンへの深いリスペクトと鋭い洞察にあふれた内容で、見ごたえのあるインタビューばかり。
ぜひチャンネルをチェックしてみてください。