「バップにジャズのルーツはない」──チャーリー・パーカー 1949年 ダウンビート誌インタビュー全訳
1949年、ダウン・ビート誌の記者マイケル・レヴィンとジョン・S・ウィルソンは、2週間以上にわたってチャーリー・パーカーに連続インタビューを行った。
パーカーはバップとジャズの関係性、バップ誕生の瞬間、自身のルーツ、ディジー・ガレスピーへの複雑な思い、そして音楽の未来について率直に語った。ジャズ史の核心に触れる、一級の証言録。
(※本記事は、1949年9月9日号の『ダウン・ビート』誌に掲載された記事を翻訳したものです。原文のPDFはworldradiohistory.comで公開されています。▶︎Down Beat Magazine, September 9, 1949.PDF)
バップは小編成の音楽
ニューヨーク──「バップはジャズの落とし子ではない」──パーカーはそう言い切った。
バップの創始者である彼は、「バップは古い伝統からは完全に切り離された、まったく別のものだ」と語った。ジャズから受け継いだ要素はほとんどなく、そこにルーツすらないのだ、と。
ここ5年で世界的な名声を確立した、少しふっくらとした小柄なこのアルト奏者は、「バップは基本的に小編成でやるべき音楽なんだ」とも付け加えた。
ビッグバンドのフロントに縛り付けられれば、ガレスピーの演奏だって変わる。あの立場になれば誰だってそうなるよ。本来、彼は素晴らしいミュージシャンなんだ。豹柄のコートや奇抜な帽子だって、マネージャーが客寄せのためにやらせている演出に過ぎない。2、3年前、商業的に売り出そうと、俺の曲に勝手に彼の名前をクレジットしたのと同じやり口だよ。
ビートの自由
幾夜もかけて議論を交わし、バップとは何かを定義してほしいと頼んだが、パーカーは明確な答えを出さなかった。
ただの音楽だ。クリーンな演奏を目指し、美しい音を探しているだけさ。
さらに追及すると、バップの際立った特徴はビートに対する強烈な感覚だと語った。
バップのビートは、音楽と一体になったかと思えば、逆らったり、背後に回ったりもする。ビートが音楽に推進力を与え、サポートしてくれるんだ。この「サポート」が肝心なんだよ。バップには単調に続くビートはないし、決まりきった『チャグ・チャグ』という刻みもない。従来のジャズにはそれがある。だからバップの方がより自由なんだ。
無調という次の地平
彼は、バップが最終的には無調に行き着く可能性を認めている。また、ドイツの作曲家パウル・ヒンデミットに傾倒しており、『Kammermusik』と『Scherzo for Viola and Cello』を絶賛する。
しかし、「バップは現代クラシックと同じ方向に進んでいるわけではない」と主張する。バップはより自由で、感情的で、色彩豊かなものになると確信しているのだ。
「バップはひとつの流派として形成され始めたばかりで、現在の傾向に名前をつけることすらやっとだ。まして未来を予言することはできない」と繰り返し強調した。
バップの未来について、パーカーが唯一明かしたのは、「ヒンデミットの緻密で複雑な和声構造を取り入れたい」ということだった。ただし、現代のクラシック音楽には欠けていると感じる、豊かな感情表現と躍動的な抑揚を加えたいのだという。
誰も知らないパーカーの原点
パーカーがジャズの伝統を意に介さないことは、熱狂的なファンたちでさえ驚かせることだろう。だが実際、彼には伝統的ジャズのルーツが全くないのだ。だからこそ、伝統的なジャズマンたちと共に働いた数年間、迷える魂のようにさまよっていた。
楽器を学び始めた頃、若いジャズミュージシャンを鼓舞するとされる音楽を一切聴いていなかった。ルイ・アームストロングも、ビックス・バイダーベックも、コールマン・ホーキンスも、ベニー・グッドマンも何一つ。
11歳の彼を深く感動させ、「サックスを吹きたい!」と夢中にさせたアイドルは、ルディ・ヴァリーだった。
こんな背景のまま1930年代半ばのジャズの世界に放り込まれ、彼には足場となるものが何もなかった。3年間、出口の見えない中でもがき続けた末、ついに自分に訴えかけてくる音楽、自分にとって意味のある音楽に偶然たどり着いた。
それはチャーリーが常々こう信じているからだ。
音楽とは自分自身の経験であり、想いであり、知恵だ。それを自分のものにしていなければ、ホーンから本物の音は出てこない。
バップが生まれた夜
チャーリーのホーンが初めて覚醒したのは、1939年12月、セブンス・アベニューの139丁目と140丁目の間にあるダン・ウォールズ・チリ・ハウスでのことだった。そこでギタリストのビディ・フリートとジャムをしていた。
当時、型通りのコード進行に飽きていたとパーカーは言う。
もっと何かあるはずだと、ずっと思っていた。たまにその音が聴こえてくるんだけど、吹けなかった。
フリートと『Cherokee』を繰り返すうちに、チャーリーは突然気づいた。コードのテンション・ノートもメロディに使い、それに対応するコード進行を当てることで、ずっと頭の中で「聴こえていた」音楽が吹ける、と。フリートがそれを聴き取り、呼応した。こうしてバップが生まれた。
少なくとも、これがバップの誕生だったと考えるのは妥当だろう。得られるすべての事実が示している。だがパーカーは、謙遜を極める人間で、そのことをはっきりとは言わない。最大限言えることとして、こう述べた。
俺が先駆者の一人だという”疑い”をかけられてはいる。
歴史が示す証拠
しかし逃れられない事実がある。パーカーは常にほぼ今と同じスタイルで演奏しようとしていたと言う。1940年にジェイ・マクシャンと録音したDecca盤がそれを裏付けている。
現在の演奏と比べれば荒削りだが、確かに同じ方向性を示している──軽やかで、ビブラートのない音色、洗練された流れるようなフレーズ、複雑なリズムとハーモニーの構造。
1939年から1942年にかけてパーカーは自分の発見を磨き続けた。この時期、他のジャズメンとは違う吹き方をしていると意識していたと認めた。
誰が最初かという話になると途端に口が重くなるパーカーらしさが、次の答えによく表れている。同じ時期にディジーも他と違う演奏をしていたかと問うと、こう答えた。
そうは思わないな……わからない。そうだったかもしれない。俺が『そうだ』と言ったと書いといてくれ。
ディジー自身、『1942年以前は、自分がバップをプレイしている自覚はなかった』と振り返っている。
認めようと認めまいと、年表はパーカーがバップを始めたことを示している。一部では、世界で唯一の正統なバッパーはチャーリー・パーカーだという声もある。
「本当にバップを演奏できる人間は一人しかいない。チャーリー・パーカーだ。バップを演奏していると言う他の連中は、みんな彼の真似をしているだけだ」──あるニューヨークのリードプレイヤーは最近そう語った。
ディジーへの複雑な思い
人を貶めることを嫌うチャーリーだが、自分の音楽を派手に商業化しようとする者へは、穏やかな表情にわずかな苛立ちが滲む。ディジー・ガレスピーの外向的な個性が、金儲け目当ての者を引きつけたことは、チャーリーにとってなにかと不満の種だ。
ディジーを売り出すための一環として、チャーリーの楽曲にディジーの名前が載せられた。「アンソロポロジー」、「コンファメーション」、「ショー・ナフ」などだ。チャーリーによれば、ディジーはそのどれも作曲に関わっていない。
多くの人がバップの象徴と思っている派手な演出について、チャーリーは冷ややかな目で見ている。
連中ときたら『これがバップだ』と売り出しやがった。バン!『これで金が稼げるぞ』。バン!『コメディアンの登場だ』。バン!『変な言葉を喋るやつだ』。バン!って具合にな。
チャーリーは呆れたように首を横に振った。
ビッグバンドはバップを殺す
チャーリーはビッグバンドから距離を置いてきた。バップの真価が発揮されるのは、小編成のグループだと考えているからだ。ビッグバンドはアレンジが過剰になりがちで、バップの良さが失われると言う。
1944年にバップを演奏できた唯一のビッグバンドは、チャーリーによればビリー・エクスタインのバンドだ。ディジーの現在のバンドはバップを演奏しているが、もう少し落ち着いてメンバーの入れ替わりを減らせばもっとよくなると言う。
あのビッグバンドはディジーにとってよくない。ビッグバンドは誰でも鈍らせる。吹く機会が十分もらえないからな。ディズは本気を出せば、それこそ恐ろしいほどのアイデアが湧いてくる男だ。でも、このままビッグバンドに居続けたら、これまで吹いてきた感覚を忘れてしまうだろう。まだ同じ音は繰り返してはいないが、同じパターンを繰り返している。
ビッグバンドに可能性があるとしたら、文字通り大きくなること──弦楽器を大量に加えてほぼシンフォニーにすることだ、と彼は感じている。
標準的なジャズ編成より可能性がある。弦楽器で音の角が取れ、多彩な音色を引き出すことができる。
皿洗いから伝説へ
1920年、カンザス州カンザスシティの比較的裕福な家庭に生まれ、7歳の時に両親とともにミズーリ州カンザスシティのオリーブ・ストリートへ移った。
家族に音楽家はいなかったが、チャーリーは高校のバンドでバリトンホルンとクラリネットを演奏した。バリトンホルンには特別な愛着があった。バンドの優秀な演奏者に授与されるメダルをとるのに役立ったからだ。
決して演奏が上手かったわけではない。音が大きくて豪快な彼のホーンはバンドを圧倒しており、審査員も無視できないほどの存在感があったのだ。
1931年、チャーリーが音楽に目覚める。きっかけは、ジャズとはほど遠いルディ・ヴァリーだった。ルディに憧れる息子のために、母親は45ドルでアルトサックスを買い与えた。彼がアルトに決めたのは、Cメロディサックスは野暮ったく、テナーは見栄えがしないと感じたからだ。
ところが、この時のアルト熱は長くは続かなかった。高校でサックスを吹く友人に貸したきり、2年間も手元に戻ってこなかったからだ。学校を辞め、日銭を稼ぐために楽器が必要になるまで、サックスのことなどすっかり忘れていたのである。f
ニックネームの変遷も学生時代に始まったと言う。Charlie→Yarlie→Yarl→Yard→Yardbird→Bird──そういう経緯だったと本人は語る。
ルディへの短い熱狂の後、ブギウギのレコードを除けば、チャーリーの心を動かすような音楽は現れなかった。
1935年に高校を中退し、わずか14歳にして、アルトサックス一本で日銭を稼ぐ世界へと足を踏み入れた。
すでに触れた通り、彼がジャズの巨匠たちから影響を受けていた事実はない。そもそも彼らの演奏を聴いたことすらなかったのだ。彼を突き動かしていたのは、ただ「食っていく必要がある」という現実だけだった。
華やかに見えたし、簡単そうだったし、周りに他の選択肢がなかったから。
ただそれだけの理由で、音楽の道を選んだのである。
こうした誰からの影響も受けない状態は、その後も続いた。
彼が憧れていたサックス奏者たち──ハーシェル・エヴァンス、ジョニー・ホッジス、ウィリー・スミス、ベン・ウェブスター、ドン・バイアス、バッド・ジョンソン──はみな強いビブラートをかけていたが、チャーリーのスタイルにはそれがなかった。
ビブラートは好きじゃなかった。カンザスシティでは顎ビブラートが使われていて、白人バンドで主流だったハンドビブラートとは違った。あんなビブラートは一生使わないと思う。
チャーリーが好きなリード奏者の中で、ビブラートを使わないスタイルに近かったのはレスター・ヤングだけだった。
レスターに夢中だった。あんなにクリアで美しい演奏をする。でも俺はレスターから影響を受けていない。俺たちのアイデアは違う方向に進んでいた。
最初のギグと屈辱
チャーリーが初めてカンザスシティの音楽シーンに足を踏み入れた頃、酒場は夜9時から朝5時まで大賑わいだった。通常のギャラは1晩1.25ドルで、カウント・ ベイシーほどの存在でも1.50ドルだった。
町には約15のバンドがあり、サンセット・カフェのピート・ジョンソンのバンドが最も人気だった。ハーラン・レナード、ジョージ・リー、バス・モーテンの小編成バンドや、レスター・ヤング、ハーシェル・エヴァンス、エディ・ ベアフィールドも演奏していた。
地元を代表するピアニストはロゼル・クラクストン(Rozelle Claxton)、メアリー・ルー・ウィリアムス、エディス・ウィリアムズ(Edith Williams)、そしてベイシーだった。
チャーリーは数ヶ月かけて、アルトサックスの感覚を掴んでいった。1935年の感謝祭の夜、ミズーリ州エルドンでのギグにかき集められ、初めてお金をもらう機会を得た。ギャラは7ドル。彼が上手かったからではなく、カンザスシティのミュージシャンほぼ全員がその夜仕事を持っており、雇い主が人集めに必死だったからだ。
だが、車でエルドンへ向かう途中、事故に見舞われる。車は大破し、同乗していた2人が命を落とす大惨事。チャーリーは肋骨3本の骨折と楽器の破損だけでなんとか一命を取り留めた。その後、雇い主が彼の治療費を肩代わりし、新しい楽器まで用立ててくれたのである。
1936年2月、別のグループと再びエルドンへ向かい、今度は無事に到着した。チャーリーは15歳で、バンド最年少。最年長は72歳のベーシスト、J・K・ウィリアムス。他のメンバーは30〜40代で、末っ子のチャーリーはみんなにかわいがられ、何かと助言をもらった。
彼はギター、ピアノ、サックスの教則本を持ち込み、本格的に譜面を読む勉強を始めた。ピアニストのキャリー・パウエルは実際に弾いて聴かせながら、メジャー、マイナー、セブンス、ディミニッシュといった基本的なコードを彼に教え込んだ。
エルドンでの仕事が終わった4月には、ある程度譜面を読めるようになっていたが、現場で初見できるほどではなかった。その後カンザスシティに戻り、18番街とリディア通りの角にあるクラブ「パナマ」か「フロリダ・ブロッサム」──どちらだったかは本人も覚えていない──で、演奏の仕事を得る。ギャラは1晩75セントだった。
その仕事で大事なのは、そこにいて音を出し続けることだった。
その後まもなく、22番街とヴァイン通りにあるハイ・ハットで初めてジャムセッションに挑戦する。『レイジー・リバー』と『ハニーサックル・ローズ』を少し知っていた程度だったが、とにかく自分に吹ける範囲で演奏した。
幸い、セッションで演奏される曲はどれもシンプルだった。それに当時のルールとして、サックス奏者は金管楽器のバックでしかリフを吹かず、決して他のサックス奏者のソロを邪魔しなかった。そのため、初心者でもコード進行を見失うことはなく、2本のホーンが同時にソロをとってぶつかるようなこともなかったのだ。
『ボディ・アンド・ソウル』でダブルテンポに挑むまでは、それなりに上手くやれていたんだ。ところが、いざ挑戦した途端、みんな笑い転げた。俺は家に帰って泣いたよ。それから3ヶ月はジャムセッションに参加しなかった。
17歳でニューヨークへ
1937年、ジェイ・マクシャンのバンドに参加したものの、わずか2週間で離脱した。その後タクシー代を払わずに逮捕。素行の悪さに業を煮やしていた母親は助けてくれず、22日間拘置された。釈放されると、サックスさえも放り出したまま、無一文同然でニューヨークへと流れ着く。
それからの3ヶ月間、ハーレムのジミーズ・チキン・シャックで皿洗いの仕事に明け暮れた。ちょうど、アート・テイタムが夜更けまで常連客を魅了していた頃だ。週給9ドルと食事つきだった。やがてその仕事も辞め、寝場所を転々としながら、しばらくの間あてもなく街を彷徨った。
警官に捕まるようなトラブルはなかったよ。運が良かったんだ。たぶん、見た目がすごく幼かったからだろう。
彼は17歳だった。
ニューヨークに来て8ヶ月後、ジャムセッションで出会った連中がサックスを買い与えてくれた。それを持ってキュー・ガーデンズで仕事を得た。1年半も楽器に触れていなかったにもかかわらず、その仕事は4ヶ月も続いた。
その後モンローズ・ アップタウン・ハウスへと拠点を移す。メンバーはドラムのエベネザー・ポール、トランペットのデイヴ・リディック、その他2、3人といった面々だった。モンローズには基準報酬がなく、40〜50セントのこともあれば、客入りが良いときは6ドルまで上がることもあった。
当時俺を気にかけてくれたのは、カウント・ベイシーのトランペッター、ボビー・ ムーアだけだった。彼は俺のことを好いてくれた。でも、他の連中はみんな、俺をベニー・カーターみたいにしようとしていた。
1939年の半ば頃、初めてバッハとベートーヴェンを聴いた。特にバッハの構築するパターンに、深い感銘を受けた。
当時の連中がセッションでやっていたことは、すでにバッハが書き記していたんだと気づいたよ。しかも、ほとんどの場合、バッハの方がずっと優れた形でね。
ストラヴィンスキーとの出会い
1939年末、ビディ・フリートとのチリハウスのセッションの直後、アナポリスへ行ってバンジョー・バーニー(Banjo Burney)とホテルのギグをこなした。
その後、父親の死を機にカンザスシティへ戻った彼は、マクシャンのバンドに復帰した。
1940年夏、ダラスでマクシャンと初レコーディングを行った。最初の録音は『コンフェッシン』、『フーティ・ブルース』(彼の作曲)、『スウィングマティズム』、『ヴァイン・ストリート・ ブギ』。
パーカーがソロをとったのは、『フーティ』、『スウィングマティズム』、『セピアン・バウンス』、『ロンリー・ボーイ・ブルース』、『ジャンピン・ブルース』だ。
この頃、編曲にも手を出してみたが、まだよくわかっていなかった。「気がつくと、リード隊がトランペットより高い音域を吹く譜面になっていた」と彼は打ち明ける。
マクシャン・バンドはテキサスからカロライナ、シカゴ、カンザスシティに戻り、インディアナ経由でニューヨーク、そしてサヴォイへ。チャーリーはカンザスシティからずっと機材車を運転してきた。
サヴォイでの仕事の傍ら、モンローズでも掛け持ちで出演していた。共演者は、ピアノのアレン・テリー、トランペットのジョージ・トレッドウェル(サラ・ヴォーンの夫)とヴィクター・コールセン、ベースのエベネザー・ポール、ドラムのモールといった面々だった。
1941年末にマクシャン・バンドを離れ、1942年初頭にニューヨークでアール・ハインズのバンドに参加した。そこには、ディジー・ガレスピー、ビリー・エクスタイン、サラ・ ヴォーンもいた。チャーリーはそれまでディジーとは顔見知り程度だったが、これを機にふたりでミントンズのセッションに通い始める。
1942年末、複雑な和声へのアプローチを確立した後、ジギー・ケリーが『火の鳥』をかけてくれて、チャーリーはストラヴィンスキーを初めて耳にした。
ハインズのバンドにいた10ヶ月、チャーリーはテナーを吹き、それまでで最高の週給105ドルを得た。マクシャン時代は55〜60ドルだったのが、一気に跳ね上がったのだ。しかしバンドがラルフ・クーパーの組んだパブスト・ブルー・リボン・ サリュートの企画で陸軍キャンプツアーに派遣され、給与は下がり始めた。
ブッキングのトラブルも重なり、チャーリーは1943年にワシントンD.C.でバンドを離脱。バンド自体もほどなく解散した。その後、クリスタル・キャヴァーンズでサー・チャールズ・トンプソン(『ロビンス・ネスト』の作曲者)と組んだ。
ニューヨークに戻り、タイニー・グライムスとの『レッド・クロス』と『ロマンス・ウィズアウト・ファイナンス』のサヴォイ・セッションを行った。マクシャン盤以来のレコーディングとなった。
1943年から、チャーリーはニューヨークで断続的に活動した。
1944年の春、52丁目のクラブ「スポットライト」に出演する。ここは「モンローズ」のクラーク・モンローが経営を手がけ、かつての名店「フェイマス・ドア」の跡地にオープンした店だ。
この時、同店でクローク係をしていたドリス・シドナーが彼に興味を抱き、熱い視線を送るようになる。だがドリスによれば、チャーリーはそれにまったく気づいていなかったという。
「ものすごく冷たく、無視されたわ」と彼女は振り返る。
しかしドリスは粘り強い女性だった。初めて会ったとき、チャーリーが何の楽器を吹くかすら知らなかったが、バードとレスター・ ヤングのレコードをかけ続け、ふたりが何をやっているのか理解するまで聴き込んだ。
そして、彼女とチャーリーは1945年11月18日、ニューヨークで結婚した。
西海岸での崩壊と入院
結婚直後、チャーリーはディジーと西海岸へ行き、ビリー・バーグスで演奏した。バーグスの仕事が終わった後も留まり、ロス・ ラッセルのダイアル・レーベルのレコーディングを始めた。しかし1946年8月、心身の崩壊で入院することになる。この時期のダイアルでの録音に対するチャーリーの評価は低い。
『バード・ロア*』と『ラヴァー・ マン』は葬り去るべきだ。入院の前日に録ったんだ。セッションをこなすためにウイスキーを1リットルも飲まなければならなかった。
(※訳注:『バード・ロア』は1946年3月の録音であり、入院前日の7月29日のセッションで録音されたのは『ラヴァー・マン』『ザ・ジプシー』『マックス・メイキング・ワックス』『ビバップ』の4曲。)
チャーリーの入院生活は1947年1月まで及んだ。ラッセルは精神科医と弁護士を雇い、身元引受人となってチャーリーを退院させる。さらに、バードのためのチャリティイベントを開催し、いくらかの現金と東部への航空券2枚を調達した。
しかし、パーカーはラッセルのやり方に強い憤りを抱いている。「ダウン・ビート」誌のチャーリー・エンゲの力添えも大きかったにもかかわらず、ラッセルはダイアル・レーベルとの契約を更新しない限り、退院の書類に署名しなかったという。後になって、退院のために外部の助けなど一切必要なかったことがわかった、とパーカーは主張している。
もともとラッセルと契約した時点で、チャーリーはすでにサヴォイ・レコードのハーマン・ルビンスキーと契約していた。ニューヨークを離れる前に約30曲の録音をする契約を結んでいたのだ。
そのうちの4曲は、西海岸へ向かう前に録音した。『ココ』『ビリーズ・バウンス』『ナウズ・ザ・タイム』、そして『アンソロポロジー』だ。ルビンスキーはこの4曲を、1曲あたりわずか50ドルでチャーリーから買い取っている。
「アートに境界線はない」
今やチャーリーは一周して原点に戻ってきた。1939年にセブンス・アベニューのチリハウスでバップを始めたときと同じように、「もっと何かあるはずだ」と思い始めている。まだ演奏できない何かが、またしても聴こえてきている。
それが具体的に何なのか、チャーリー自身もまだわかっていない。だが、ヒンデミットをはじめとする現在の彼の音楽的な関心の方向性を踏まえれば、無調音楽へと向かう可能性は高い。
ヒンデミットと同列に語られることをチャーリーは嫌がる。だが、二人の出発点がまるで異なるとはいえ、最終的には同じ到達点に向かっているかもしれない、とは認めているのだ。
だからといって、チャーリーがバップと決別するわけではない。バップはまだ完成にはほど遠いと考えており、今後踏み出すいかなる一歩も、バップのさらなる発展として捉えている。
音楽には境界線があると教わる。でも、アートに境界線はないんだ。
将来はパリの音楽学校に2年通い、しばらく休んでから作曲に専念したいと語った。彼が書く音楽はすべて、ある一点に集約される。それは「温もり」だ。作曲と並行して小編成グループで実験的な演奏もしたいと言う。理想は年の半分をフランスで、残りをアメリカで過ごすことだ。
「そうするしかない」と彼は言う。「仕事のためにここにいて、リラックスできる環境を求めてフランスにいく。」
リラックスこそ、チャーリーにずっと欠けていたものだ。リラックスできなかったことが、これまでの録音のほとんどを台無しにしたと彼は考えている。本人に言わせれば、満足のいく録音を一度もしたことがない。コンチネンタル・レーベルでのいくつかの録音は、他に比べればまだリラックスできていたと感じているが、それでも自分が作ったレコードはすべて改善の余地があると言う。
私たちは彼を問い詰め、せめて他よりマシだと思える曲を挙げてもらおうとした。
「もし誰かが来て、『4ドルあるんだけどチャーリー・パーカーのレコードを3枚買いたい、何を買えばいい?』と聞いてきたら、何と答えればいい?」
チャーリーは笑った。「そいつに金を取っておけって言ってくれ。」と答えた。
後記:記者たちが見たパーカー
私たちは、音楽についてのパーカーの思考の明快さと鋭さに深く感銘を受けた。クラシックであれジャズであれ、ミュージシャンは自分が作るものについて分析的でないのが常だ。しかしパーカーは、どこへ向かうか、何をしたいかについて明確な考えを持っている──ただし、それがどんな音楽になるかは曖昧なままにしている。
バップとは何なのか。その点について彼が頑なに明言を避けるのは、決して気取っているわけではない。パーカーは自分の表現を求めて格闘しているミュージシャンなのだ。自らの音楽的本能が求めるままに、その表現を完璧かつ適切に展開し切るための理論的な裏付けが、まだ追いついていないだけの途方もない才能の持ち主だ。
彼の難解な言葉を正しく理解するなら、パーカーはこう感じているのだ。従来のジャズは、現代の形式主義的な音楽に見られるような、形式の多様性や節度、さらには規律の豊かさやアイデアの制御といった面が著しく欠けている、と。
一方で、現代の交響楽には、推進力(おそらく彼の言うダイナミクスの概念に含まれるものだろう)や「温もり」が欠けていると感じている。そして、自分たちのようなミュージシャンこそが、ジャズの伝統であるこうした要素をクラシックの世界に注入する一助になれると信じているのである。
ビバップはジャズとは無関係だというパーカーの主張は興味深い。それは、既存の形式を窮屈だと感じ、もはや役目は終わったと考える若きミュージシャンが、その殻を打ち破ろうとする際に見せる典型的な反応といえるだろう。もっとも、彼のこうした立場を維持し続けるのは、おそらく困難ではないかと我々は睨んでいる。
彼がクラシック音楽と民衆音楽の融合を真剣に模索していることは間違いない。もしそれを実現できれば、音楽史においても稀に見る快挙となるだろう。これまでにも多くの作曲家が民衆音楽の主題や情緒を引用してきたが、その色彩や感情のパターンを、クラシック音楽に完全に統合した者はいない。
一流のミュージシャンが皆そうであるように、彼もまたテクニックというものに対して並々ならぬ執着を持っている。彼はうっとりするような甘美なストリングスの音色を好むが、それを多用していくうちに、適切なバランスへと落ち着いていくことだろう。ジミー・ドーシーのようなテクニシャンに対する彼の傾倒も、同様に成熟していくはずだ。
パーカーはあらゆる種類のドラッグに対して極めて強い拒絶感を持っている。カンザスシティにいた幼い頃、それが何かも分からないうちに、公衆トイレで身ず知らずの男から差し出されたのだという。
以来、1946年に精神を病んで倒れるまで、彼は長年にわたって断続的に使い続けてきた。自分のような子供を食い物にする連中は、射殺されて当然だ――彼は苦々しくそう語った。
マリファナや注射、あるいは酒に酔った状態で『いい演奏ができる』なんて言うミュージシャンがいたら、そいつはただの嘘つきだ。酒を飲みすぎれば、まともなフレーズを思いつくどころか、指を動かすことさえままならなくなる。かつて俺が薬漬けだった頃、自分ではいい演奏をしているつもりだったかもしれない。だが今、当時のレコードを聴けば、それが間違いだったとよく分かる。一流の奏者になるにはぶっ飛ばないといけないと思っている若者たちは、ただの狂気だ。そんなのは真実じゃない。経験した俺が言うんだ。信じてくれ。
パーカーという男は、実に率直で誠実、そして常に何かを追い求めている。それが我々の抱いた印象だ。彼は自らの仕事に対しても、周囲から聞こえてくる音楽に対しても、絶えず不満を抱いている。それほどまでの才能がいったい何をもたらし、彼をどこへ連れて行くのか。現段階では、彼自身にさえ分かっていない。
だが、答えを見出そうとし、正し、向上させようとする彼の絶え間ない努力は、彼自身にとっても、そして彼が否定した「祖先」であるジャズにとっても、希望の光となるに違いない。
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